Yukari Shuppan
オーストラリア文化一般情報

2002年~2008年にユーカリのウェブサイトに掲載された記事を項目別に収録。
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インタビュー (9)       へーゼルウッド真理
 
この欄では、有名、無名、国籍を問わず、ユーカリ編集部で「この人」を、と思った人を紹介していきます。今月のこの人は、メルボルンの「実りの会」の会長さんであり、同じくボランティアの「サポートネットワーク」作りに奔走していらっしゃるヘーゼルウッド・真理さんにインタビューをさせていただきました。
 
*早速ですが「実りの会」について伺いたいのですが、いつ、どのような理由で発足したのかお話しいただけますか?
メルボルンには、ここに住んでいる日本の人達の集まりであるJCV(ジャパン・クラブ・ビクトリア)というのがありまして、その分会としての「シニア会」が、ある戦争花嫁の方が中心となって1995年に発足しました。将来的に「何時でも必要に応じて相互を援助する会」を目指していました。高齢の方々が中心で、戦争花嫁の方も何人かいらっしゃいました。残念ながら当時は「シニア」に属する年代が少なかったため、自然消滅の形になっていました。それでシニアだけでなく、シニアの方々をサポートするためにも、もっと広い層も参加できるようにして、福祉ボランティアもめざしていくことを念頭に、1999年に「実りの会」と改名して、活動を開始しました。

 *「シニア会」の意志を真理さんが受け継いだかたちになりますね。その理由は何でしょうか
高齢化問題です。
 
*では、高齢化問題に興味をもたれたきっかけは
日本にいる私の両親が歳をとってきてまして、ご近所の方々にいろいろとお世話になっています。その罪滅ぼしに、私はこちらで高齢の人達のお役に立てたら、という気持ちですね。両親は75歳くらいの時に、こちらに来ることも考えていたのですが、言葉の問題もあって、万が一私に何か起きた時、どうすることもできないから、という理由で断念しました、今80歳になっていますが、来なかったことを後悔しています。
 
*どうしてですか?
歳をとってくると体力維持のためにも、家の外へ出て歩くことが大切になってきます。両親は東京の郊外に住んでいますが、車が多くて危険で外を散歩することができません。道路が狭く、歩道がなくて白線が引いてあるだけでのところを自転車も通るし車もすれすれに走っていきますから、年寄りには危なくて歩くこともできなくなってきました。日本はどんどん変わっています。場所にもよりますが、高齢者が住みにくい環境になってきていますね。
 
*話をメルボルンにもどして、「実りの会」はどのような活動をしているのでしょうか?
現在のところ月に一度集まって、スピーカーの方をお招きしていろいろお話を聞いたり、それに関して話し合いをしましょう、ということで会合をもっています。ただ、スピーカーが日本の方で健康に関するトピックだとけっこう集まるのですが、オーストラリア人だと集まりが悪くてこまっています。
 
*それはトピックではなくて言葉の問題ですか、日本語か英語かの。
たぶんそうでしょう。現在ベービィブーマー(日本では団コンの世代にあたる)といわれる世代の人が高齢になる10年、15年先にいろいろ大変になってくるのではないかと思うのですが、そのときのためにも今からオーストラリアのコミュニティに参加したり、、いろいろなかたちでつながりを持っておかないと困るのではないかな、と私は大変心配をしております。
 
*現在「実りの会」で活動をしている人は何人ぐらいですか?
だいたい10名です。サポートをして欲しい、という方も少しずつでてきています。

*ビクトリア州でのサポートネットワークを立ち上げる話も具体化しつつあるとか。
実りの会」はJCVの傘下で活動していますが、他の団体「ホープコネクション」や「国際結婚友の会」などと一緒に、他州のサポート・ネットワーク・ケアとも連帯しながら、幅広い福祉ボランティア活動をしていこうというものです。現在ボランティア登録の名簿作りを始めています。他人のお宅に伺ってお話を聞いたり、お世話をするのですから、他人のプライバシーを守れる人でないとこまります。ボランティアとしての基本的な知識や訓練も必要ですし、ボランティアだからといって気軽に誰でもなれる、というわけのものではありませんから。   

*サポートネットワークの対象になる方とその内容はどのようなものですか。
高齢者に限らず、病気やケガで入院中・退院後の回復期、出産直後・育児中、などの方が対象になります。サポートの内容は例をあげますと、病院・ナーシングホームの食事が食べられない。梅干の入ったおにぎりでいいから日本食がたべたい。日本語でおしゃべりをしたいが話し相手がいない。退院後身体が回復していないので買い物に出られない。周りに知人がおらず育児に不安がある。幼児や病人がいるので2,3時間の外出ができないでこまっている。このような場合のサポートができると考えています。

 
*大変心強いネットワークですね。今は大丈夫と思っていても、明日何が起こるか誰にもわかりませんものね。いろいろお話を伺って活動の主旨など分かってきましたが、将来の展望はどのように。
究極の目的は日本人のためのエイジドケアの施設をつくることです。
 
 *それは素晴らしい構想ですね。先立つものはありますか?
 私がビジネスで儲けて資金をつぎ込むつもりだったのですが、日本経済が低迷してますのでなかなか思うようにはいきません。あちこちに寄付をお願いしたりして、とりあえず小さなボーディングハウスぐらいからならできるのではないか、と考えています。なぜボーディングハウスかというと、最近亡くなられた戦争花嫁の方の例もあるように、一人暮らしで頑張ってしまうのですね。お子さんもおありで、一緒に住もう、といわれていたらしいのですが、食事のこととか、いろいろあって最後までお一人でした。彼女のような場合、ボーディングハウスがあればよかったのではないかと思うのです。甘えてはいけない、という気持ちで頑張るのもいいのですが、それにも限界があるはずです。ですから時がきたら頼れる施設があっていいと思うのです。とりあえず小さいのでいいですから作りたいと考えています。

 

*ぜひ実現させてください。ところでご自身のことをまだ何も伺ってがっていませんが、オーストラリアは長いのですか?
1972年の9月に日本から船で1ヶ月かかって、メルボルンに上陸しました。その頃はまだ紹介状やスポンサーがないと入国できない時代でした。幸い父の知り合いがメルボルン大学にいたものですから入国許可がおりました。それと、ちゃんと必要なお金をもっています、という証明がいりました。パスポートの最後の方に、キャッシュ千ドルと書き入れてあります。その頃の1ドルは480円だったのですよ。大学に入学した時に、父が自分で旅費を工面できたら海外にでてもよい、といってくれたので4年間一所懸命バイトをして費用をためました。

 

 *どうしてオーストラリアを選ばれたのですか?
 その頃は、オーストラリアはまだ白豪主義の国として知られていました。私はあまのじゃくですから、じゃあ行ってみようと。
*まあ、そうでしたか。それはすごく勇気のいることですね。それから30年ずっとオーストラリアで。
いいえ、約10年間はオーストラリアには住んでいませんでした。夫の仕事の関係で日本、サウジアラビア、アメリカと転々としておりました。その後、オーストラリアに戻ってきて、1986年にアシアアクセスという会社を設立しました。シドニーに11年住んだ後、5年前にメルボルンに引越してきました。現在は水産物を日本へ輸出する過程で、日本と現地の間に立ってコミュニケーションの仕事をしています。
*それでは最後に、現在オーストラリアでの生活をどう思われていますか? 
とても満足しています。先見の明があった、と思っています。
*今日はお忙しい中をお時間を頂き有難うございました。福祉ボランティアの活動とお仕事が成功して、ボーディングハウスが早くできるように祈っています。

インタビュー: スピアーズ洋子

サポートネットワークへの問い合わせ・連絡先:Tel 9397 8421  Fax 9397 8423 

(c) Yukari Shuppan
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