Yukari Shuppan
オーストラリア文化一般情報

2002年~2008年にユーカリのウェブサイトに掲載された記事を項目別に収録。
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インタビュー (13)    ヴァレーリア ネメシュ(Valeria Nemes)
 
この欄では、有名、無名、国籍を問わず、ユーカリ編集部で「この人」を、と思った人を紹介していきます。今月のこの人は、毎月オーストラリアのアボリジニーのお話「ドリームタイム」を書いてくださっているヴァレーリア ネメシュさんです。
 
* 「ドリームタイム」を書くあたってはたくさんの本を読まれていると思うのですが、どうやってテーマを決めていくのですか。

「ドリームタイム」はお話ですが、童話などとは全く違って、お話だけ読んでもわからないんですね。というのは、アボリジニーは長い間自分達だけで近代文明に接する機会がなくて暮らしてきているので、今の私達とは観念が違うからです。ですから、アボリジニーの習慣、暮らし方、考え方がわからないとドリームタイムはわかりません。それで私は毎回アボリジニーの生活習慣などの説明をし、そしてそれに関連したお話を一つ載せるようにしています。お話を先に選ぶ時もありますし、私が興味を持った習慣や儀式があると、それに合ったお話を探してきます。アボリジニーについて新聞記事を書く人やTV、ラジオで話をする人はアボリジニーの精神面をとてもよく理解している人達です。1ページのお話に2ページの説明を加えている本もあります。むずかしいのは分かりやすいお話をさがしてくることです。時々分かりやすく変える時もあります。前田さんも私の英語を日本語に訳す時そうすることあるでしょう。

 * いったい、いくつくらいドリームタイムはあるのですか。もちろん正確に言うのはむずかしいでしょうけど。

昔500部族はいたでしょう。それぞれドリームタイムを持っていましたから、数は膨大だったと思いますよ。でもずいぶん失われてしまいました。200年ほど前白人が来てからというもの、アボリジニーは追い立てられ、殺され、今まで守ってきた生活、習慣、儀式などを無理やり変えさせられたり、捨てさせられたりしてきました。タスマニアのアボリジニーは全滅しました。ある部族は同じ言葉を話す人は2人(父と息子)しか残っていなかったといいます。こうして、ドリームタイムも人といっしょに無くなってしまいました。字を持たなかったアボリジニーは口から口へとドリームタイムを伝えました。それが掟であり、自分達の存在の証であり、歴史であったわけです。ドリームタイムは本だったんですね。ウィットラム首相の頃ですから、1973年ですか、この頃から政府だけではなく、民間人の間からも、アボリジニーのドリームタイムを掘り起こそうという動きが始まりました。白人が訪ねて行って、アボリジニーから話を聞き取るのです。人類学者がよくやりますが、1年、2年、3年といっしょに暮らしながら書き取っていきます。学者ばかりでなく、趣味で出かけていく一般人もたくさんいますから、統計的にはっきりした数字は出てこないんですが、おおざっぱに言って、何千と言う数になると思います。それから同じような話がオーストラリア全体のどの部族にもあるといいます。少しずつ変わってはいますが、同じ話なんですね。たとえば南十字星の目印の星になった兄弟の話はたくさんあります。秘密になっているドリームタイムもあって、限られた人しか知らない、または一部しか教えないということもあります。まだ聞き出しに来た人がいないので、頭の中にお話をたくさん持っているアボリジニーもいると思います。

 

毎回たくさんの本を読まれると思うのですが、何冊くらいですか。
テーマにそった本2~3冊を中心にして書きますが、そのほか確認のために見る本が10~20冊くらいです。図書館にも行きますが、私は本を集めるのが趣味で、いろんな所から本を見つけてくるので、手持ちの本もたくさんあります。
 
*いつ頃から、アボリジニーに興味を持つようになったのですか。この国に来てからですか。
私は古い文化が好きなので、ヨーロッパにいる時から興味は持っていました。ヨーロッパでは学校で、パプアニューギニアやオーストラリアのアボリジニーのことも教えますから。15年前に主人の仕事でオーストラリアに来ると決まった時は、アボリジニーに会えると期待しました。でも来て見ると、メルボルンにはアボリジニーがいないので、がっかりしました。そのうち様子がわかってきて、アボリジニーはもっと北の方に住んでいて、都市部にはいないんですね。それでもセントキルダには、浮浪者がたくさんいて、その中にアボリジニーがいました。都会で育って画家として成功した人もいます。もう亡くなりましたけれど。お父さんがアボリジニーでお母さんはスコットランド人の混血でした。有名(リン オウナス)でしたよ。その頃はもう学校でもアボリジニーのことをずいぶん教えるようになっていて、私の子供達も色々習ってきました。アートの時間にドットペインティングというアボリジニーの点描画をやってきたり、ドリームタイムのお話を聞いてきたり、これはとてもいいことですね。移民の国のオーストラリアでは、アボリジニーの文化も土着の立派な文化の一つです。今アボリジニーアートも人気が出てきて、街でアボリジニーアートのギャラリーをずいぶん見かけるようになりました。でもアボリジニーにとっては、アートでもなんでもないのです。彼らが描くものはメッセージであり伝達手段です。ドリームタイムが生活に密着した本であるのとおなじように。ですから、こんなこともあったそうですよ。バイヤーがアボリジニーの所に行って「絵はあるか」と聞いても、彼らは「ないよ」と答えます。すると、バイヤーは「こういうものが欲しい」と見せて、「こんなものを描け」と言ったと。
 
これからも同じ形式で書かれていきますか。
ええ、ドリームタイムに関しては同じように書いていきます。お話したようにドリームタイムはいくらでもあるので、限りなく書けるのですが、私はこの200年でアボリジニーがどう変わったかという方にも興味があります。ドリームタイムはある程度で打ち切って、白人が来てからのアボリジニーについても書いてみたいと思っています。悲しいこと、悲惨なこと、理不尽なこと、たくさん起りました。誰を責めるわけではありませんが、事実として受け止めなければならないことです。とても微妙な問題ですけどね。
 
ところで、ヴァレーリアさんは日本語が大変お上手ですが、ドリームタイムを日本語で書くのはむずかしいですか。
ええ、話したり、聞いたりはいいんですが、読むのもまずまずですが、日本語でこういう内容の文章を書くのはむずかしいですね。私はハンガリー語とドイツ語のバイリンガルで育ちました。ハンガリー生まれのハンガリー人で、両親がオーストリアに引っ越したので、オーストリアで大学卒業まで教育を受けました。小学校はハンガリア語で、、中学から大学はドイツ語で勉強しました。ウィーン大学の翻訳、通訳コースに入り、外国語を取らなければいけなくて、初めは中国語にしたんですけど、設備がよくないので止めにして、日本語にしました。ハンガリーはアジアの流れをくんでいるので、ハンガリー語と日本語は文法や考え方が似ていたので、私にはぴったりで大好きになりました。3年間よく勉強しました。オーストリアと日本は戦前から関係が深くて、とてもいい日本学研究所があります。3人の教授に5人の学生という恵まれた環境でした。将来は国連の同時通訳になりたいと夢を描いていました。
 
日本にも住んだことがおありでしょう。

早稲田大学に3年間留学していました。1年に2人しか取らない文部省の奨学生に受かるために猛勉強しました。1970年から1973年です。初めは留学生会館から井の頭線で通いました。しばらくしてから、世田谷区のお家に下宿しました。あの頃は留学生は少なかったので、とてもよく面倒をみてくれて、いい家庭を選んでもらえました。日本にいる間ずっと同じお家に世話になりました。私は、日本のお父さん、お母さん、お姉さんと呼んでいます。裕福な教養あるお家で、お父さんはアメリカに行った最初の留学生で地震の勉強を向こうでしていたそうです。1923年関東大震災が起きて、あわてて戻ってきたそうです、自分の勉強の実地見学をしたくて。大学教授をしていて退官近かったと思います。離れをもらって、毎日お庭を通って母屋にお風呂をもらいにいきました。夕食後は茶の間で、テレビを見ながら、いろんなことを教えてもらいました。お父さんはなんでもよく知っていて、平家物語のことも教えてくれました。お母さんは鹿児島の人で、とてもいい人でした。大学で教わる以上のことを家族から習いました。

 

 

旅行もなさいましたか。

毎月どこかへ行ってました。四国は行きませんでしたけど、九州、北海道、東北とずいぶん行きましたよ。特に東北は田舎で大好きでした。ハンガリーの田舎と日本の田舎はよく似ています。私は古いもの、昔のものが好きなので、映画も白黒のを見ましたし、しゃべる人もお年寄りのほうが好きでした。お友達になった未亡人のご主人は初めてオリンピックで金メダルを取った三段跳びの選手でした。だから私の日本語は少しオールドファッションかもしれません。

英語はどうやって身につけられましたか。

中学(12才)から学校の科目の一つとして勉強しました。週5日間毎日英語があって、先生はアメリカ人。内容も話す,聞く、と会話中心ですから、日本の英語教育より良かったと思います。ヨーロッパはどの国も英語教育はいいですよ。大学でも言い回しや熟語を勉強する英語コースを取りました。おもしろいのは、日本にいる間、ハンガリー語とドイツ語は全然使わなくて、英語と日本語ばかり使っていので、気がついたら英語の文が頭に浮かぶようになってました。

 
オーストラリアにはもう永住ですか。
はい。初め主人の仕事は3年だったのですが、まず子供達が気に入ってしまって、ずっといたいと言いますし、私と主人もお日様がさんさんと射すのが、暗いヨーロッパから来ると何ともいえずよくて、3年のうちに永住権を取りました。
 
*語学が専門でいらっしゃるから、あちこちで教えて来られたと思いますが、今までどんなことをされてきましたか。またこれから何をなさりたいですか。
来てすぐに、ハンガリー語とドイツ語を教えていました。そのうち、小学校の課外レッスンで、日本語を教え始めました。私立のハイスクールで日本語を教えたこともあります。日本と取り引 きをする会社のコンサルタントや日本人の商社の奥さんに英語を教えたり。でも、語学教師よりは私の興味は人々とその人達を取り囲む文化と言葉にあります。オーストラリアはいろいろな国の人がいるのでとてもおもしろいですね。5年前に本を書きました。オーストラリアを紹介する本なのですが、観光客用ではなくて、この国に住み始めた外国から来た人にオーストラリアはこういう国ですよと教えてあげる本です。日本の英語教育の出版社から出した本なので、各章の見出しは日本語ですが、後は英語の本です。オーストラリア人からもおもしろいと言われました。「外国から来た人は私達の国をこういう風に感じるのね」と。今、五つ目の語学として、スペイン語を習いたいと思っています。南アメリカに行くことがあるかどうかわかりませんけど。そして、最近の私の趣味はストレッチングです。日本にいた時、指圧を習ったことがあるので、そっちの方に興味がありますから、ここでもスインバーン大学でリフレッシュのコースを取りました。そして、人に指圧やマッサージをしてもらうより、自分から体を動かすほうがずっといいことがわかりました。、ゆっくりとストレッチすると心も体もほぐれてきます。痛いところも治ります。肥満もなくなります。私は今まで勉強ばかりしてきましたから、これからは、体を動かす方に気をつけて、いつも頭と体と心が生き生きとした状態でいたいと思います。そしてなるべくたくさんの人が健全な心と体で元気でいて欲しいと願って、講習会も開いています。私の興味の対象、人と文化と言葉にも通じるものだと思っています。

 *今日は盛りだくさんなお話ありがとうございました。

インタビューアー    前田晶子

ヴァレーリアさんの電話番号 61 3 98175273
e-mail address  vnemes@hotmail.com(日本語可)

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