Yukari Shuppan
オーストラリア文化一般情報

2002年~2008年にユーカリのウェブサイトに掲載された記事を項目別に収録。
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インタビュー (19)       チェリー・パーカー
                                
  
この欄では、有名、無名、国籍を問わず、ユーカリ編集部で「この人」を、と思った人を紹介していきます。 今月のこの人は、第二次世界大戦後、最初の戦争花嫁として1952年にオーストラリアに入国されたチェリー・パーカーさんにインタビューをさせていただきました。チェリーさんの夫、ドン・パーカーさんは、当時、妻の入国許可を得るのに大変苦労され、最後の手段としてマスコミを通して世論に訴え、多くの人々の支援が、ついに当時の白豪主義の政府を動かしたのでした。
 
*お二人はいつ、どんな状況で出会われたのですか?

敗戦の翌年、私は呉に住んでいて、進駐軍のキャンプの診療所で働き始めました。ドンは進駐軍の衛生兵として診療所に駐屯していて、そこで出会いました。

*お二人はまだお若かったのでしょうね。

私は17歳、ドンは18歳でした。

*チェリーさんの入国許可がでるまで何年かかりましたか?

5年です。彼は陸軍を退役して、いったんオーストラリアに帰って、1年経ってから呉に戻ってきてくれました。そして6ヶ月滞在しました。その間に正式に結婚しました。でも彼の仕事がみつからなくて、またオーストラリアへ帰らなければなりませんでした。それから1年半して、また呉に来てくれました。

*チェリーさんとドンさんは、日本で正式に結婚していたにもかかわらず、当時のオーストラリア政府は日本女性に入国許可を出さなかったのですね。それでドンさんはいったん一人でオーストラリアにお帰りになった。それからの待つ身は不安で辛らかったでしょうね?

最初にドンがオーストラリアに帰った時は、周りの人は、彼はもう戻ってこないだろう、といっていました。私は身重になっていたので、堕胎するように知り合いから何度も忠告されました。でも近所に昔の隣組の方がいて、とても親切にしてくれたので、助かりました。

*そういう状況で、生む決心をして、じっと待っていられた理由はなんですか?

私はドンを信じていましたから。

*信じる以外なかったわけですよね。でもそこまでドンさんを信じられた、ということは?

彼がオーストラリアに戻ると決めた時はすでに知り合って2年以上経っていましたから、彼の人柄も解かっていました。必ず迎えに来る、と約束してくれたし、信頼できる人だと信じていました。それに、彼は手紙をたくさんくれました。週に3通ぐらい届いていました。もう箱にいっぱいでかかえても重たいくらいでした。大事にしてオーストラリアにもってきましたよ。

 
*正式に結婚してお子さんもあるのに、ドンさんは日本に長期滞在ができなくて、チェリーさんはオーストラリアに入国できない、ということは、いずれの母国でも一緒に暮らせない、ということですよね。第三国に住む以外は。 

ええ、2回目に呉にもどって来た時は、ドンはそのつもりだったようです。

*そういう状況で、やっと許可が下りてオーストラリアへ行けることになった時のお気持ちは?

うれしい、というよりは不安、心配の方が強かったですね。行った先でどうなるのか、見当もつきませんでしたから。

*そうでしょうね。現在はオーストラリアがどのような国か、およその予備知識を得ることはできますが、当時は皆無だったでしょうし。それに5年間も入国を拒否された旧敵国に行くわけですものね。今の私たちには想像もつかないような状況ですね。  

呉から船で行ったのですよ。タイピン号という船でしたが、普通の船客などいませんでした。みんな軍関係の人ばかりでした。乗船する前の日でした。キャプテンがドンに、「奥さんは日本の人ですか?」と聞いて、「入国許可は下りたのですか?」と聞いていました。ドンが「はい」といって、許可証を見せたら、「よくおりましたね」といってびっくりしていました。
*どのような船旅でしたか?
乗船してからは、もう、毎日船酔いで、ゲーゲーもどしてばかりいました。海も荒れていましたし。でも中国人の船員さんがたくさんいて、とても親切にしてくれました。私のために特別におかゆやつけものも作ってくれました。それに二人の子供のめんどうもよくみてくれたので、とても助かりました。
 *最初に着いたのはどこですか?
ケアンズでした。上陸して町を歩いて、それからパイナップル畑を見にいったのですが、本当にびっくりしました。大きなパイナップルが何エーカーもの広いところに実っていました。あんなのを見たのは初めてでした。その日、生まれて初めてミルクシェーキを飲んだのです。あれはおいしかったわ!

*船旅でずいぶんお痩せになったんではないですか?

ええ、痩せたでしょうね。船酔いと未知の国でどうなるのか、という不安がありましたしね。終着のシドニーに着いたら、ジャーナリストたちが日本からの戦争花嫁第一号を取材するために押し寄せていました。ドンは彼らに応対していましたが、私は子供と一緒に着替えもしないで船室に引きこもっていました。そしたらドンドン、とドアをノックする人がいて、「誰ですか?と聞いたら、「ドンの姉のジェーンよ。早く出ていらっしゃい。」と言うので、「いいえ、私はここにいます。」と応えました。「ダメダメ、これから飛行機でメルボルンに行くのよ。早く着替えをして、出てきなさい」と言われました。お姉さんはわざわざメルボルンからシドニーまで出迎えに来てくれていたのです。あの人は、あれ以来、ずっと何かにつけて、陰になり日向になり、力になってくれ、とてもよく私たちの面倒をみてくれました。

*メルボルンの第一印象はいかがでしたか?

ジャーナリストの人たちがまた大勢きていて、びっくりしました。リングウッドの両親の家についても、沢山の人が家に入りきれなくて外を取り囲んでいました。あんなに人が沢山来ているとは思いもしませんでした。メルボルンの印象というよりも、着くなり人々に取り囲まれて、そのことでびっくりしてしまいました。

*チェリーさんの入国許可を得る為に、ドンさんはもちろんですが、ご両親、ご家族やお知り合いが奔走なさったのですよね。最後にマスコミにとりあげられて、政府を動かした、という背景があったからと、最初の日本からの戦争花嫁が入国した、ということでマスコミから注目されたのでしょう。でもご主人のご家族が暖かい良い方たちでよかったですね。

 本当にそうです。私の後から、戦争花嫁として来た日本女性の中には、家族に受け入れられなくて、行くところがない人が私の知っているだけでも3人いました。ドンのお母さんに事情を話したら、落ち着き先が見つかるまで、2階が空いているから、家に来てもいい、といってくれて、彼女たちは1ヶ月くらい滞在していきました。
*まあ、なんと親切な素晴らしいご両親ですね。

ええ、本当に母さんはとっても心の大きい人でした。この地域の名士だったのですよ。お父さんも、とても優しい方でした。イギリス人で。

ご家族やご近所、お知り合いの方々は、チェリーさんを暖かく迎えてくれたわけですが、他の人たちの反応はどうだったのでしょうか。敵国からの花嫁だとか、人種的偏見などはなかったのでしょうか。

ありましたよ。嫌がらせや非難の電話や手紙などが沢山来ていたようです。家族の人たちは、私に知られないように隠していましたが、そういうことはなんとなく感でわかってしまいますね。

*思いやりのあるご家族に恵まれましたね。では生活の上であまり困ることはなかったですか?

やっぱり、食べ物がね。あの頃は日本のものなど何もなかったからね。軍の人を通じて、日本のお醤油を一缶送ってもらったのです。お醤油さえあれば、野菜を茹でてお醤油をかけるだけでも、日本の味がするでしょ。中国のお醤油は日本のとは味が違いますからね。
*中国のお醤油はあったのですか?

 ありました。中国のレストランもありましたから、私たちはよくレストランにチャーハンを食べに行きました。

*オーストラリアに来たとき上のお嬢さんは何歳でしたか? 幼稚園や学校での子供たちの反応はどうだったのでしょうか? 子供には偏見がないはずですよね。
3歳になっていました。偏見は子供自身にはないでしょう。でも大人がね。家庭で「あの子はジャップの子だ」とか、親たちが話すのを聞いているのでしょう。小学校に入って間もなく、泣いて帰ってきました。ドンがすぐに学校に行って、校長先生に話してくれました。翌日校長先生は、全校生徒を集めて、いじめてはいけない、と話してくれました。それからは大丈夫でした。あの子も言葉をすぐに覚えましたから、みんなの中に入っていけたようです。
*お子さんは全部で何人いらっしゃるのですか?
8人よ。女の子が4人、男の子が4人なの。
*まあ、8人!それでは子育てがさぞ大変だったでしょうね。お子さんを沢山産まれたのには何か理由があったのですか?
私は一人っ子で淋しかったの。幼いときに母を亡くして、父も原爆の後遺症で亡くなりました。だから家族は多い方がいいと。ドンは兄弟が多い、大家族。それにドンがね。混血の子供が将来助け合って生きるには、味方の数が多い方がいい、って。
*そうですか。当時は周りの状況がそれだけ厳しかったということですね。お子さんの躾けは誰がされたのですか?
ドンがしてくれました。こちらの習慣やマナーにあわせないといけないから。食事のマナーなどもドンがしっかり躾けてくれました。テーブルについたら、きれいに全部食べ終わるまで、離れてはだめ。お手伝いも小さい時からね。テーブルセッティングだとか、後片付け、食器洗いもね。小さいうちから年齢に応じて、できることをさせていました。だから、上の子だけでなく、みんなよくしますね。やっぱり小さい時から躾けられているから身についているのね。だから子育てといっても、そんなに大変でもなかったですよ。         
*お子さんが8人だとお孫さんは? 
19人。上の娘はもう50歳をすぎてますからね。クリスマスにはみんなが集まるの。家族が多いって、いいものよ。 
*まあ、それは壮観でしょうね。でもお孫さんが19人もいると名前を覚えるだけでも大変ですね。
そう、特に誕生日のプレゼントがね。カレンダーにしっかりと名前と歳を書き込んでおかないと、忘れます。     
*8人のお子さんを育あげるには、30年近くかかりますね。いくらお手伝いをしてくれるよいお子さんたちばかりでも、やはりお忙しかったのではないですか。
そうね。ホームシックにかかっている暇もなかったわね。子供たちがみんな学校へ行くようになっても、おやつやお昼の準備の手伝いなどで、いつも学校に行っていたし、男の子たちは、みんなフットボールクラブに入っていたので、そっちの方でも飲み物、食べ物の準備や手伝いがあってね。忙しかった。一人二人じゃないからね。無我夢中で、あっという間だったわね。        
*最初に日本に里帰りされたのはいつ頃ですか?
日本を出てから25年ぶりでした。東京オリンピックの頃ね。一応一番下の子の手が離れるようになった時でね。その時は日本では電話のかけかたもわからなかった。私が日本を出た時は、会社などには電話があったけど、普通の家には電話がある家など珍しかったですよ。汽車だって、朝、呉を発って東京に着くのは翌朝でしたから。新幹線なんてね、夢のような話。
*チェリーさんはオーストラリア人になられて何年経ちましたか? また、オーストラリアのどんなところが好きですか?
50年ですからね。もう日本人という感覚が薄くなってきていて、オーストラリア人としての方が強くなっているでしょうね。好きなところは、オーストラリア人のおおらかであっさりしたところ。国の広さもありますね。こんなに広いところだとは思わなかった。実際にきてみるまではね。
*当時の日豪関係ですが、戦争中に日本軍が海外でしたこと、捕虜虐待などにともなう反日感情のことはオーストラリアに来る前からご存知でしたか?
ええ、進駐軍のキャンプで働いていましたから、そういう話は聞いていたので、だいたいは知っていました。
*この頃はあまり報道されなくなりましたが、20年くらい前まではアンザックデーや終戦記念日前後、戦争中の日本軍の捕虜虐待に関する報道がすさまじかったですね。私はそういう知識がいっさいないままにオーストラリアに来たので、そういうことを知らされた時のショックが大きかったですね。いたたまれない気持ちでした。
でも、戦争ですからね。ただ、日本の兵隊さんはかわいそうでしたよ。上の人が酷かったから。日本の軍隊は日本人にとっても怖かったですよ。その点オーストラリア軍は民主的でフレンドリー、ちっとも怖くないし、上の人も、親切ですね。
*オーストラリア兵は亡くなっても大切にされていますね。毎年アンザックデーに追悼式やパレードがありますものね。国のために命を捧げたあなたのことは決して忘れません、という。今でも海外派兵から帰ってきた兵隊さんたちは、パレードなどで盛大に迎えられていますね。

そう、ドンもアンザックデーのパレードには毎年参加していますよ。

*ご夫妻ともリタアイヤされて、チェリーさんは現在はどのような日々を過ごされていますか?

ガーデニングに精をだしています。その他は友達に会ったり、子供たちも8人の内の誰かが、孫を連れていつも遊びにきていますから、けっこう忙しくすごしています。

*今日はインタビューをさせていただきありがとうございました。これからもお元気で充実した日々をお過ごしください。

インタビュー: スピアーズ洋子

(c) Yukari Shuppan
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