Yukari Shuppan
オーストラリア文化一般情報

2002年~2008年にユーカリのウェブサイトに掲載された記事を項目別に収録。
前へ 次へ
 
インタビュー (25)    Andre Sollier アンドレ・ソリエ
                                
  
この欄では、有名、無名、国籍を問わず、ユーカリ編集部で「この人」を、と思った人を紹介していきます。 今月のこの人は、メルボルン在住の墨絵画家、アンドレ・ソリエさんをお訪ねしました。ミッチャムのご自宅に道場を設け、絵を制作するかたわら、墨絵、座禅の手ほどきもしていらっしゃいます。昨年12月に開催した墨絵の展覧会は大変好評でした。
 
*メルボルンには、何年お住まいですか?
 
33年になります
*33年!長いですね。メルボルンの前はどちらで? 
日本です。3年半住みました。
*では日本の前はフランスですか? 
いいえ、スエーデンに15年住みました。  
*スエーデン? 
 そうです。私の国籍はスエーデンなのですよ。パスポートもスエーデンのパスポートです。
*アンドレさんはフランス人だとばかり思っていましたが。

ええ、私自身はフランス人だと思っています。心のアイデンティティはフランス人ですが、法律上はスエーデン人なのです。

*どういうわけで、そうなのか、うかがいたいのですが。
私はずっと若い頃からフランスを出て、外国へ行きたいと思っていました。第二次世界大戦が終わってからしばらくして、カナダに行きたいと思いました。けれどその頃カナダに行くのはなかなか大変でした。スポンサーとか渡航費、滞在費などいろいろ条件がありました。私はスカンジナビアにも興味がありました。本もいろいろ読んでいてスエーデン、ノルウェーの白夜とかフランスとは異なる気候にも興味があったので、とりあえずスエーデンに行ってみることにしました。スエーデンからカナダへ行けるかもしれない、と思いました。それが15年になってしまったのは、スエーデン女性と結婚したからです。けれど結婚は破綻しました。だからといって私はフランスに戻る気はありませんでした。世界旅行をするつもりでフランスを出て、スエーデンで止まっていましたから旅の続きをするつもりでした。それでスエーデンの国籍を取って、スエーデンのパスポートで旅行を続けることにしました。そうそう、フランスを出て初めてスエーデンへ向かう旅の途中のことでした。デンマークに着いたのが丁度クリスマスイブでした。母は私が一人で外国でクリスマスを向かえる、ということを悲しがっていたようですが、父は「いいから、自分が思ったことをやり遂げなさい」と励ましてくれました。冬にスカンジナビアへ行く、という私の考えは、正しかった、と思います。スカンジナビアの冬景色、特に海岸線は素晴らしかったです。

*墨絵との出会いはいつどこで?

スエーデンでした。スエーデンでは 空手を習っていました。同じ頃、たまたま墨絵を見て、墨絵に強く魅かれました。禅にも興味があって、この頃から日本に行きたいと思い始めました。
*空手を習って、墨絵に魅かれ、禅にも興味がわく、ということはフランスを出る前からそういうものに興味をお持ちだったのですか?

いいえ、そうではありませんでした。絵は7才位から描いていました。フランスで私は画家でイラストレーターでした。絵はおもにアクリル画を描いていました。でもスエーデンで墨絵を見たとき、自分が求めているものはこれだ、と思いました。

*墨絵の何が魅力だったのでしょうか?
直接的な手法です。デッサン、コンポジションなどいろいろ思考を重ねて、色も重ねていくのではなく、インスピレーションをダイレクトに表現するのがとても気にいりました。心を紙に直接表現できます。スエーデンでは雪が沢山降りますから、白と黒の世界で表現するものがたくさんありました。
*どなたか先生がいらしたのですか?
いいえ、先生はいなくて雪舟の本から学びました。空手の先生が墨絵のテクニックが書いてある本をくれたのでその本を参考にしました。道具を手に入れるのは難しかったですが、中国の雑貨屋さんでなんとか似たものを買うことができました。
*空手の先生は日本人だったのですか?
オランダ人でした。
*オランダ人? それは面白いですね。
先生は自分が教えられることは全部教えたので、もっと上達したいと思ったら日本へ行きなさい、といいました。墨絵も自己流で学ぶには限界がありました。それで日本に行くことにしました。空手だけでなく、武士道、仏教、禅、日本のアートにも興味がありました。
*ヨーロッパでは、ヨーロッパ文明の行き詰まり、という感じで作家や詩人、芸術家がアジアに目を向けた時期がありましたね。アンドレ・マルローは第2次世界大戦前に中国へ行っていますね。ヨーロッパ脱出、というアイディアにはそういった影響もありましたか? 
そう、アンドレ・マルローはカンボジアにも行っていますね。でも、私自身は多少の影響はうけたかもしれませんが、フランスを出る時点ではそれほどアジア、日本に関心があったわけではありませんでした。スエーデンで空手を始めたのが、きっかけでしょう。   
*日本へはどのようにしていらしたのですか?
同伴者と一緒の旅で、1965年にスエーデンを発ちました。私たちには飛行機で行くお金がなかったので、アメリカの中古車を買って車で行きました。ところがトルコで車の調子が悪くなってしまいました。それで車はトルコで断念しました。でも買い手がみつかったので車を売って、後は徒歩で行くことにしました。トルコからイランには汽車で、それからアフガニスタン、パキスタンを通りました。ヒッチハイクもしましたよ。軍隊のトラックに乗せてもらったこともありました。ところがパキスタンとインドは政情が危険な状態だったので、通過はあきらめました。それで私たちのカメラを売って、香港まで飛行機に乗りました。香港からはフランスの船で神戸にいきました。それまで香港、神戸、香港、ケープタウン、ヨーロッパへという、フランス船の定期航路があったのですが、それが閉じられることになって、私たちが乗船したのは、その最終航路の船でした。この船に乗船できたのはとても幸運でした。1966年に神戸に着きました。      
*約1年の長い旅路の果てに、いよいよ日本に上陸ですね。
日本ではスエーデン人の空手の先輩が迎えてくれました。まず、私たちはその先輩が住んでいる東京へいきました。とりあえず先輩は、わたしたちが泊まるところを提供してくれました。日本で最初に食べたのは天ぷらです。おいしかった。それからお風呂にはいりました。       
*お風呂はお家にあったのですか? それともお風呂屋さん?
お風呂屋さんでした。
*まあ、それはそれは大変な初体験でしたね。
ええ、本当にすごい「体験」でした。石鹸は湯船の外でしか使ってはいけない、ということを忘れないように自分にいいきかせました。
*東京ではどんなことをされたのですか?

しばらく先輩の家にやっかいになって、それから絵を描き始めました。スエーデンの大使館でスエーデン人のアーティストが描いた、昔から現代までの絵画の回顧展をすることになったからです。その時の私の作品は墨絵ではありませんでした。白黒のアクリル画でした。日本の学者が買ってくれました。

*日本ではプロの画家として生活されたのですか?
そうしたかったのですが、難しいことでした。同時に日本の伝統文化を学ぶこともしたかったですから。空手だけでなく、柔道や剣道にも興味がありました。東京で友達と一緒に暮らしていた時に、岩本さんという老紳士に出会いました。この人は、「もし、武術をやりたいなら鹿児島へ行きなさい。日本で武術に最適な唯一の場所が鹿児島です」といいました。それで鹿児島に行くことにしました。鹿児島では鹿児島の警察所で剣道を習いました。同じ頃に、鹿児島県の弓道連盟会長の小溝先生に弓道の指導もしていただきました。空手の方は、少林寺空手道の創始者でグランドマスターの保先生のご指導をうけ、ずいぶんとしごかれました。その間に絵も描き続けました。鹿児島では展覧会を2回開きました。山形屋が私の絵を扱ってくれました。
*絵は売れましたか?
ええ、買ってくれる人が沢山いたのでとても助かりました。墨絵とアクリル画の展覧会と両方しました。とてもいい批評をうけました。日本人よりも日本の心を理解している、と書いてくれた人もいました。
*フランス人の描く墨絵ということで評判だったでしょうね。
 私は仏教、禅にも興味があって、禅寺で修行をしたい、という夢がありました。あるご婦人が福岡の禅寺で私を受け入れてくれる、と知らせてくれたので福岡に行きました。大西老師といわれた、当時大変有名なお坊さんについて禅の修業をしました。本当に素晴らしい方でした。朝早く起きて庭を掃き清め、薪割りなどもしました。もちろん座禅もたくさんしました。空手と弓道も続けなさい、といわれたので両方しました。
*日本人にとっても難しいことを沢山されて、文化や生活習慣の違いからくる問題というか、困ることはありませんでしたか? 
いいえ、それはなかったです。食べ物も全然問題ありませんでした。日本食は大好きです。納豆だって好きですよ。唯一の問題は言葉でした。私は言葉がまったくダメでした。東京で日本語を勉強しておくべきだった、と思いました。
*奥様とはいつどこで出会われたのですか?
初めて会ったのは鹿児島の私の展覧会場でした。次は屋久島です。
*屋久島? また珍しいところですね。日本人でもめったに行かないところですよ。
妻は鹿児島出身で、屋久島で先生をしていました。それで私は、屋久島にいる彼女に会いにいったのです。小さな古い船に乗って。
*そうだったのですか。それがそもそものロマンスの始まりですね。その頃の船は、かなりプリミティブというかベーシックというか、ひどいものだったでしょう。日数もかかるし。
ちょうど台風シーズンでした。        
*それでも屋久島へ行く大きな理由があったのですね。
次は飛行機で行きました。小さなセスナ機で、左右、高低ものすごく揺れました。
*うわぁ、ステキ! 船やセスナ機で恋人に会いに行くなんて、さすがはフランス人!
昔のことですけどね。ええ、素晴らしい思い出ですね。それから間もなく私たちは結婚しました。鹿児島といえば、そこで初めて焼酎を飲みました。私はお酒があまり強くないのです。でも、少しだけ飲みました。短い間でしたけれど、収入を得るために鹿児島テレビでフランス語を教えました。弓道では競技大会に参加して4段をとりました。別の機会に少林寺空手道も3段をとりました。活け花も、池坊の大脇先生に教えていただきました。先生はとても優しい方で、お稽古のときに、お茶とお饅頭などのお菓子を出してくれました。それがとても楽しみでした。もちろん墨絵も続けていました。鹿児島に行って本当に良かった、と思います。その頃、鹿児島には西洋人はいませんでした。とくにフランス人は珍しかったのでしょう。みんなとても優しく親切にしてくれました。素晴らしい先生方にたくさん出会いました。
*日本には全部で何年いらしたのですか?
3年半です。その間に絵の展覧会は鹿児島の2回も入れて全部で12回しました。
*たった3年半の間にそんなに沢山のことをされて、生涯の伴侶もみつけられて、素晴らしく充実した、濃縮された3年半だったのですね。
そうですね。学びたいこと、したいことが沢山ありすぎて、毎日興味がつきないことばかりで、眠るのが惜しいくらいでした。
*それなのに何故3年半で日本を出てしまったのですか?
私はずっと日本で暮らしたかったのです。でも私のビザはツーリストビザでしたので、日本に長く住むことはできませんでした。期限が切れると、韓国や沖縄へ行って観光ビザを申請しなおしましたが、それにも限界があったのです。
*今と違って当時の日本の法律では、外国の男性が日本女性と結婚しても、永住ビザは取れなかったのですよね。日本人の男性と結婚した外人女性には許可がおりましたけれど。それで、行く先にオーストラリアを選ばれた理由は?
私はその時フランスやスエーデンに戻って行く気はありませんでした。私の旅はまだ途中でしたから。次に行く国を考えていたときに、オーストラリア人の友人が、オーストラリアは良いところだから、と薦めたのです。この人はオーストラリアのABC放送局の人で、NHKとの交換・交流で日本にきていました。オーストラリアは国は安全だし、自由だし、人々はフレンドリーで新しい国だから色々なチャンスがたくさんあるからと、国のピーアールマンみたいにさかんに薦めてくれたのです。それで、では、行ってみようかと、ビザを申請したら妻と私のビザが直ぐに取れたました。移民のビザではありませんでしたけれど。
*ではオーストラリアにいらしたのは、偶然の要素が強かったのですね。もしカナダ人の友人がいたら今頃はカナダに住んでいたかも知れない? 
そうですね。本当に住みたかったのは日本でしたから。でもオーストラリアに来て良かった、と思っています。丁度その頃から、オーストラリアでも日本文化に興味を持つ人が出始めていました。
*太平洋戦争の旧敵国の影が少しずつ薄れて、経済や日本文化にも興味が向けられ始めた時ですね。
そういう意味では丁度いい時でした。新聞の The Age やモナシュ大学、メルボルン大学など、いろいろなところでプロモーションをしてくれました。展覧会をしたり、夏期講習で絵画を教えたり、活け花もしました。でも活け花は、花器が手に入らないのが難点でした。弓道も直ぐには教えることができませんでした。弓が引けるだけの長さのある場所がなかったからです。弓を引くには最低28メートルが必要なのです。でも後に、この土地をみつけて買いました。庭に弓場を作れるだけの長さがあったので。Orient Avenue という道の名前も気にいりました。        
*そうだったのですか。お宅に伺う途中で、この通りの名前は偶然なのかな、と考えたのですよ。
裏庭の古い納屋があったところに道場を作って薩摩道場と名づけました。道場の前に弓場も作りました。
*メルボルンでは画家として収入を得て生活してこられたのですか?
絵を描くだけでなく、教えてもいました。モナッシュ大学、メルボルン大学、ラトローブ大学、プレストン・インスティチュート・オブ・テクノロジーとか、いろいろな教育機関で教えていました。教えた生徒の数は全部で4000人ぐらいになると思います。今でも時々手紙やカードが届きます。「私は30年前あなたの生徒でしたが、覚えていますか?」とか、「先生はまだ生きていますか?」と書いてあったりします。私は教えるのが好きなのです。教えることが楽しいのです。
*今でも教えていらっしゃるのですか?
ええ、薩摩道場で座禅と墨絵を教えています。
*アンドレ先生の生徒さんはオーストラリア人ですか?
ほとんどオーストラリア人ですがマルチカルチャーの国ですから、色々な人種がいます。沢山の日本人にも教えましたよ。
*ここにある4冊の本はアンドレさんが書かれた本ですか?

私が挿絵を描いた本です。この弓道の本は弓道のテクニックだけでなくフィロソフィーも含めて、日本語でなく外国語で書かれた初めての本だと思います。服装や道具のイラストがたくさん入っています。これはやぶさめを描いた墨絵です。

*この本はオーストラリアに来てから出版されたのですか? 

いいえ、東京にいた時です。

*たった3年半の間に本も出版されたのですか! 本当に凄い! この本はオーストラリアに来てからですね。薄い墨と筆で描かれたガムツリーがとてもいいですね。

ええ、この本はオーストラリアの私の生徒たちに捧げたものです。描く対象を日本の風景からオーストラリアのランドスケープに切り替えなければならなくて、私自身にとっても、ちょっとしたチャレンジの時期でした。この本は評判が良くて、売り切れ絶版になっています。こちらの ZEN questions という本は Robert Allen という人が本文を書きました。挿絵はエディターの Alison Moss が、どこかで私の墨絵をみて気に入ってくれて、彼女から依頼されて私が描きました。まだ最近の本で2002年にロンドンの MQ Publications というところから出版されました。       

*話は少しそれますが、フランスも日本も芸術や文化の香り高い国ですよね。特に日本の伝統文化に魅かれたアンドレさんが、オーストラリアにいらして、そういうものに対する渇きのようなものは感じませんでしたか?

オーストラリアに来ても、私は日本で習ったものをずっと続けてきました。日本についての私の知識は限られたものであっても、日本の芸術をとても愛していますから、それをオーストラリア人に伝えるのは喜びでした。それに日本の文化に興味のある人たちが私の周りに集まっていたので、日本の文化は日常と共にありました。もし、田舎や地方都市に住んでいたらちがっていたでしょう。

*結婚されてすぐオーストラリアにこられたわけですね。 

ええ、オーストラリアへの旅は新婚旅行のようなものでした。永住するつもりではなかったので。

*でも33年間暮らしてこられたのですよね。お子さんはおありですか?

娘が2人います。上が32才、末が24才です。上の娘は来月出産予定です。

*まあ、素晴らしい、おふたりの初めてのお孫さんですか?

ええ、そうです。

*ところで普段ご家庭では何語で話されるのですか? 

妻とはほとんど英語です。時々フランス語が混ざることもありますが。娘たちとも英語です。彼女たちが学校でフランス語を習っていた時はフランス語を話しましたが、まわりが全て英語なのでどうしても英語になってしまいます。

*現在、墨絵と座禅の他に何かされていることはありますか?

一人の男の一生を詩の形式で書いています。墨絵の挿絵をつけて本にしたいと思っています。

*本を書く時は何語で書くのですか? 

フランス語です。書き終わっているのですが、英語に翻訳しなければなりません。出版社がみつかるといいのですが。

*アンドレさんの次の本が出版されるのを楽しみにしています。ぜひ実現してください。今日はお時間を割いて、とても興味深いお話をしてくださりありがとうございました。

アンドレ・ソリエさんの自画像

インタビュー:スピアーズ洋子  


アンドレ・ソリエさんへのコンタクト
Tel & Fax (03) 9874 3537


*アンドレ・ソリエさんの墨絵の挿絵入りの本、以下の3冊は購入可能です。
Zen Questions   Published by MQP  ISBN 1840722932   $17.95
Zen Poems                           MQP           1840723270   $17.95
Zen Reflections                     MQP           1840723289   $24.95

Contact
Bookwise International
Pobox 2164, Regency Park, SA 5942
Email: mail@bookwise.com.au
Tel 08 8268 8222

(c) Yukari Shuppan
この記事の無断転載、借用を禁じます。





前へ 次へ