Yukari Shuppan
オーストラリア文化一般情報

2002年~2008年にユーカリのウェブサイトに掲載された記事を項目別に収録。
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インタビュー (27)     内田真弓
                                
  
この欄では、有名、無名、国籍を問わず、ユーカリ編集部で「この人」を、と思った人を紹介していきます。 今月のこの人は、日本人ではアボリジニーアート関係の第一人者、内田真弓さんをメルボルンのギャラリーを兼ねたお宅にお訪ねしました。
 
*現在メルボルンで内田真弓さん、といえば、ああ、あのアボリジニーアートの、という感じですが、オーストラリアにはアボリジニーアートが目的でいらしたのですか? 
いいえ、全然違うのです。最初はボランティアの日本語教師としてきました。
*では日本では先生を?
それも違うのです。オーストラリアに来るまでは、日本の航空会社でスチュアデスをしていました。国内線で6年間勤務しましたが、英語を勉強したくて会社を辞めました。両親には大反対されましたけれど。英語を勉強すると同時に日本語を海外に広めるのもいいのではないかと思って、海外で日本語教師の仕事をするボランティアに応募して、オーストラリアで1年間働くことにしました。でも英語が全然できなかったので、その前に1年間アメリカへ英語の勉強に行きました。オーストラリアの学校で子どもたちに日本語を英語で教えるわけですから、やっぱり英語があまりに不自由でも困ると思って。それから、1年間ボランティアをする費用として100万円をお支払いしてオーストラリアにやって来ました。
*えっ? ちょっと待ってください。ボランティアだから無給というのはわかりますが、ボランティアをするために100万円もどうして払うのですか? オーストラリアは貧困後進国ではありませんよ。それではオーストラリアに来る旅費とか滞在費はどうなのですか?
旅費も滞在費も保険料も自分もちですよ。
*そのお金は日本のエージェントにいくわけですね。100万円も払ってそんなことをするなんて、やっぱり日本人て、すごいですね。それで1年間ボランティアをなさって英語は上達しましたか?

ええ、それはしました。行った先がビクトリア州の北のはずれの小さな村でした。白人じゃなくて、肌の色が違うのは私だけ、というところでした。最初、子どもたちはアジア人を見るのは初めてなもので、珍しがって、私のことを触りに来たりしたんです。6軒のホストファミリーを順繰りに廻りました。1993年の深夜、メルボルン空港に到着してから1年間、アングロサクソンだけの社会で過ごしました。学校が休みに入ると、自分でオーストラリアを旅してまわりました。その時にアリススプリングスへ行って、昼間から町にたむろして、地べたに座り込んでビールを飲んでいるアボリジニーたちの姿を初めてみました。ふんーん、彼らがアボリジニーと呼ばれる人たちなのか、と思いました。

*その頃はまだアボリジニーとかアボリジニーアートへの関心はなかったのですか。
全然ありませんでした。知識もなかったですね。町に戻ってホストファミリーにアボリジニーについて質問したことはありました。学校でも社会科の授業など聴講させてもらったりもしたのですが、当時は学校ではアボリジニーのことは全く教えていなかったし、子供たちも何も知りませんでした。学校の先生たちも、アボリジニーは我々の税金で生活保護を受け、働きもしないで昼間からビールを飲んでいる、どうしようもない奴らだ、という考えのようで、話題にもしたくない、という態度でした。私がアリススプリングスで見たアボリジニーも、写真を撮ったら、40ドル払え、といって手を出したりしたので、うんそうか、と思っていました。でもなんとなく気になって、アボリジニーの本を読み始めたりしたのですが、専門的で英語が難しくて、読めたものではなかったですね。それで日本から日本語で書かれたアボリジニーに関する本を取り寄せて読んでみたりもしました。でもちょっとした興味の段階を出ていませんでした。

*では、そもそものきっかけは?

決定的だったのは、日本語教師のボランティアが1年で終わった時でした。帰らなければならないのですが、帰りたくないな、という気持ちでした。退職してきたので帰っても職場もないし、実家に帰れば、早く嫁に行け、とかお前はアメリカに1年、オーストラリアに1年行って、その2年間はいったい何になったのだ、などと言われるのにきまっているんですよ。すごく保守的な両親ですから。それで両親には一応帰る、といっておきながら仕事も探してみました。日本語教師とか、カンタス航空、アンセットなどに履歴書を送ってみました。そしたら航空会社からは面接の通知がきました。だけど面接では、「ところで、永住ビザはありますよね」っていわれました。応募者がたくさんいるので、すでに永住権を持っている人しか採用しない、といわれて海外でのビザの大切さを再認識させられました。じゃあ、もう日本に帰ろう、帰ってまた新たなスタートをしよう、と気持ちを固めました。日本を出た時、友人などからお餞別を頂いたので、ではお土産を買おう、と思ったのですが、小さな村ですからお土産屋さんなんてないんですよ。それでメルボルンという大都会に、お土産を買いにきました。なんだかわくわくしながら、直ぐに大丸の地下へ行って、和食をたらふく食べました。それから、じゃあ、お土産探しだ、と外へ出てブラブラしていたら雨が降ってきました。傘を持っていなかったので、とりあえず雨宿りをしよう、と辺りを見回したら、免税店とオパールのお店とアボリジニーのアートギャラリーがありました。ああ、そういえばアリススプリングスにもこういう画廊があったな、なんだか奇妙な絵で、やたらに値段が高くって、と思いながら、閉店間際のギャラリーに入って行きました。雨に濡れてバックパッカーの格好をした私は、どうみても絵を買うお客とはみられなくて無視されていましたが、そこには今まで見たのとは全然ちがう絵がいっぱいありました。店員さんは、閉店時間だから早く出てくれ、といわんばかりの態度でしたが、不思議な絵だな、と思って見ていると、「君は日本人かい?」、と声をかけた人がいました。背が高くて、目のギョロッとした男性でした。画廊のオーナーだったのです。自分はオランダ人で、日本の浮世絵に興味があって集めている。日本にも何度か行ったことがあるが、日本人はどうして英語を話さないのかね。君は日本人なのになぜ英語を話すのか、といわれました。私はこれこれしかじかで、今、日本語の教師をしていますが、後1ヶ月で日本に帰ります、という話をしました。そしたら、アボリジニーアートは見たことがあるかね、と訊かれました。旅行でアリススプリングスに行った時にちょっと見ただけです、と答えたら、どう思うかね、と訊れました。コメントできません。初めて見るようなものだし、見てもさっぱり意味がわかりません、と答えました。そうしたら、では僕が説明してあげよう、といって、画廊のスタッフを帰して、それから延々と2時間、雨宿りに入ってきた買うはずもないバックパッカーの私に、アボリジニーの歴史とか文化、アートについて、こと細かに説明してくれたのです。
*では真弓さんにとって、それがアボリジニーアートとの出会いだったわけですね?

そうです。アボリジニーがなぜ絵を画くのか、その絵が彼らにとってどんな意味があるのか、狩猟民の彼らにとって水を得る場所というのがどんなに大切な情報か、文字を持たない彼らは水の在り処を、絵によって子孫に伝えているので、絵は情報なんだよ、これはビジュアルな文字なんだよ、と説明されて、びっくりしました。えっ、ではこれはどんな意味があるの? これは何? と立て続けに質問をしてしまいました。そうしたら、これは売らない、というプライベート・コレクションまで見せてくれました。途中で、この人、何でこんなに親切なんだろう、と思いましたけど、あまり遅くならないうちに、お礼を言って、その日はメルボルンのバックパッカーに行って泊まりました。でもそのギャラリーのことが、何かすごく気になって翌日も行きました。「オー、又来たのか」といわれて、こんどはプライベートな話もしました。「君は、日本に帰ってどうするのだ?」「現在のところ何も計画はないけど、仕事を探してまた働きます」「君とは昨日2時間ほど話をしたが、君はなかなかユニークなものの見方をして、ユニークな考えを持っている。自分はこのアボリジニーアートを日本という大きなマーケットに紹介したい、展示会をして広めたい、と思っているのだが、自分は日本語が話せないし、ツテもない、君はこれを仕事としてやってみる気はないかね」、と昨日あったばかりの見ず知らずの私に、こんなヘンテコなことを言い出したのです。

*すごく気に入られたのね。彼にはアートだけでなく人を見る目もあった。
私としては、とんでもない、という気持ちでした。1ヵ月後にはビザが切れて日本に帰る身ですし、飛行機のチケットだって持ってるし、アボリジニーアートについては昨日、初めてまともに観たばかりで、仕事としてする自信も知識もありません、と冗談半分に答えました。そしたら「もし、君にやる気があるのなら、ビザの方は、ぼくのギャラリーがスポンサーになって、ビジネスビザを取ってあげるよ」と言ってくれました。
*まさに人生の分かれ目ですね。
そうなんですよ。雨宿りにアボリジニーアート・ギャラリーに入ったばっかりにね。いまだにあの時の話をすると、鳥肌がたってくるんですよ。だってあの時の話で、私の人生は変わってしまったのですもの。あの時ラーメン屋にはいっていたら、私はラーメン屋になっていたかもしれないし、雨が降らなければ、お土産を買ってまっすぐ日本へ帰っていたかもしれないんですよね。でも、猜疑心というか、なぜこの全く素人の私に突然こんな話をもちかけたんだろう、と思いました。
*うーん、彼にそういわせるだけのものを、あなたがもっていた、ということなのでしょうね。それと、オーストラリアに住んでいる人って、そういう気軽というかカジュアルな面がありますよね。知り合ったばかりの人を、パーティや結婚式に招くとか。慎重に物事をあれこれ調べて、ああだ、こうだと、つまらないことにこだわってないで、自分の直感を信じて決断する、ダメだったらやり直せばいい、という感じで。
そうですね。私も11年間住んでみて、今ではその辺のところはだいぶ解かってきました。でもビザを取ってくれる、といっても、取れるかどうかわからないですよね。スペシャリストのビザといっても、私はいままで経験もありませんから。失業率も高かったあの頃、日本人だからというだけでビザがおりるのかどうか。そのまま帰国するという選択もあったわけですが、私はチャレンジする方を選びました。1ヵ月後に成田空港に迎えに行くからね、という両親には内緒で1年のビザを申請しました。だけど、そのビザだって、いつ下りるか分からないですよね。来月か3ヵ月後か、来年か。それに貯金もほとんど使い果たしていたので、いったん日本へ帰ることにしました。それに、こんな形で突然出会ったアボリジニーのカルチャー、それを継承している人たちと関わっていく気が、いったい自分には本当にあるのかどうか、頭を冷やして考えてみたい、という気持ちもありました。ビザが下りたら来ます、という口約束だけ残して、お給料がいくらもらえるか、なんてことも全然話さないまま帰国しました。
*それはすごく日本的ですね。ビザは直ぐ下りたのですか?
それが、待てど暮らせど。2、3ヶ月過ぎて4、5ヶ月になると、ほらみろ、お前はやっぱり騙されたのだ、なんていわれるようになって。その間は職探しもできないわけですよね。7、8ヶ月目に入って、これはやっぱりダメなんだ、と思うようになりました。それと8ヶ月も日本で暮らしていると、日本もいいなあ、と思うようになってきたのです。食事も美味しいし、言葉はすぐ通じるし、このまま日本にいて職探しをしよう、と思い始めた頃、やっとビザが下りたんですよ。今回は片道の航空券だけ持って、スーツケースを二つ下げてメルボルンにやってきたのが1994年でした。
*直ぐギャラリーに勤め始めたのですか?
ええ、君の給料は1週間400ドルだよ。といわれて、それが安いのか高いのかもわからず、はい、といって働き始めました。最初の1年は、ギャラリーの仕事というものがよく解らなかったですね。私は絵がちっとも売れませんでした。いったい私はこのお店で役に立っているのか、なんて思ったりもしました。日本人のお客様なんてちっとも来ないし。日本というのは、絵をぽん、ぽん、と買う、という文化にはまだなっていないのです。住宅に絵を飾るスペースの問題もありますし。
*そうね。1994年頃といえば、日本はバブルがはじけてもしばらく持ちこたえていて、外からは、おや、日本はもしかして大丈夫なのかも、というように見えていたのが、とうとう踏ん張りきれなくなったというか、実情が露呈されてきた頃ですよね。タイミングとしては厳しかったですね。
そうなんですよ。明日からもう来なくていいよ、なんていわれてしまうんじゃないか、と思っていながら3年ほど、もんもんと働きました。そのうちに、そうだオーナーは日本に市場を広げたい、といって私を雇ったのだから、日本で展覧会をしたらいいんだ、と考えました。そんな時読売新聞から展覧会の話が入ってきました。それで、オーナーが所蔵している絵の展覧会を日本ですることになりました。日本にはアボリジニーの絵のスペシャリストは誰もいないので、カタログ、パンフレットひとつ作るにも、民俗学の人と相談しながら翻訳するなど、絵の運搬、展示その他、全ての準備をして、最後に契約書にサインをするまでに3年かかりました。
*受け入れる側としての日本の反応はどうだったのでしょうか?
シドニーオリンピックを境に随分変わりました。それまでは誰もアボリジニーアート展をやりたがらなかったのです。なにせ誰も何もしらないのだから、やったってお客さんが入るわけがない、というのが美術館側の意見でした。でもあの開会式に参加したアボリジニーの人たち、彼らボランティアで奥地の砂漠や、あちこちから、わざわざギャラもなしでやってきたのですよ。その彼らがダンスとか歌を歌ったりしたでしょ。それに聖火の最終走者はアボリジニーのキャシー・フリーマンでした。聖火に点火する彼女の姿が世界中に送られたわけです。あれはアボリジニーにとって大きな意味がありました。日本の人たちもあれを見て、ああ、あの人たちがオーストラリアのアボリジニーと呼ばれる人たちなのだ、とわかってくれたようです。あれは世界に向けての素晴らしいアピールだったと思います。
*あの頃、オーストラリアはアボリジニーの扱いについて、海外からかなり批判を受けていましたからね。それを一新するための政府のスタンドプレー的なアピールだ、という非難もありましたけどね。まあ、でも理由はなんであれ、その意図は十分に果した、まずまずの開会式だった、ということになるのでしょうね。 
あのオープニングを見て、日本の私の友人、知人からも、あそこに登場してたのが、真弓ちゃんがやってるアボリジニーとかいう人たちなの? という連絡が殺到しました。実はあの開会式で、オーストラリアにはアボリジニーという先住民がいるのだ、ということを初めて知った日本人がたくさんいるんですよ。
*そうね。オーストラリアに観光で来る日本人は、オーストラリアの歴史とか文化にはあまり興味がないみたいね。カンガルーを見て、コアラを抱いて写真を撮って、という感じですものね。そういう環境でアボリジニーアートのマーケットを開拓していくのは大変な仕事ですね。その上不況ときてるし。
そうなんです。それでもシドニーオリンピックの翌年、2001年から2年にかけて15ヶ月間に4箇所での展覧会が実現しました。その間は日本・オーストラリア間を10往復しました。
*展覧会の成果はどうでしたか?

私にとって得たものは、ものすごく大きかったです。それまでの努力が初めて形になったのですから。この展覧会を開催したことで、新聞、ラジオ、雑誌というさまざまな日本のメディアで、アボリジニーアートを紹介していただくこともできました。素晴らしい方々との出会いもありましたし。入場者の数より来てくださったお客さんが満足してくださった様子だったのが、なによりでした。

*アボリジニーアートやカルチャーに魅かれる一番の理由は何ですか?
彼らアボリジニーの人たちです。それも居住区に住んでいるアボリジニーの人たちですね。アボリジニーといってもいろいろいて、都市に住んでお金やモノに価値を置く普通の人たちとちっとも変わらないアボリジニーもいるし、居住区の村にも、私が行くと40ドルくれ、なんて手を出すおじさんもいます。でもそのなかに、狩をしたりして昔ながらの生活を続けている人たちがいます。5万年も彼らは外からの影響を受けずに暮らしてきていますから、独自な発想を持ったとってもユニークな人たちです。彼らにとって大切なのはモノや金ではないのですね。彼らと一緒に狩に行って、ダンスをしたり歌を聞いたり、お話を聞いていると、根本的に、人間にとっていったい何が大切なのか、考えさせられます。そして、5万年もの昔から語り伝えられている彼らの話をもっと、もっと聞きたい、知りたい、と思います。そして自分がいいと思ったものは人に伝えたいですね。 
*そのお話というのはドリームタイムといわれているものですね。彼らは気軽に話してくれますか?
いいえ、時間がかかります。一緒に狩に行ったりして、私がどういう人間なのか解かってきたら、あいつにはちょっと話してやろうか、ということになるのかもしれませんが、一度狩に一緒に行ったぐらいで、なんでも話してくれるわけがないですよね。アボリジニーの絵には全部お話があるのですが、それだって、ほんのちょっと聞かせてもらえる、というところです。やはり時間がかかりますよね。だから通い続けるのですけれど。
*そういう話は何語で聞くのですか?アボリジニー語?
アボリジニー語というのはたくさんあるのです。中央の砂漠地帯の村々にアートを求めて行くのですが、数十キロ離れている部落ごとに言葉がちがいます。だから、全部のアボリジニー語を覚えるのは到底無理。コミュニケーションは英語です。子どもたちは英語が解かるので、子どもたちに通訳を頼みます。

*どのくらいの世代から英語が通じなくなるのですか? 

40代、50代かな。でも全く通じないわけでもなくて、少しはわかる人もいたり、いろいろですけれど、これだけ文明が入ってきていますから、英語がまったく解からない、というアボリジニーはもういないかも知れませんね。
*居住区へ行った時は、寝起きなどもアボリジニーと一緒にするのですか?
以前はそこら辺に寝袋を敷いて寝たりしたのですが、居住区の中でもモラルが乱れてきていて、レイプなどの事件もあるので、それは止めました。居住区の若者にもガソリンを吸って、もうろうとしているようなのもいるんですよ。私の車からガソリンを盗んで吸ったりするんですよ。そんな状態なのです。彼らは町へ行っても歓迎されないし、村にいてもすることがないのです。私がよく行く居住区はアボリジニーが350人いますが、そこに白人は12人です。福祉の仕事をする人とかですけれど。彼らの家に泊めてもらいます。だからベットもあるし、シャワーも使えます。
*アボリジニーの若者たちが、そういう状態というのも、彼らにやるべきことが見つからないからなのね。飢えることはないし、福祉で最低限度の生活は保障されても、人間それだけでは生きられないですよね。現在、アボリジニーのなかで、狩をして自然の水を求めて、という昔ながらの生活をしている人たちはどのぐらいいるのですか? 
半分ぐらいではないでしょうか。彼らは実際に狩に行くのですよ。でも狩に行きながら、家には冷蔵庫があるんですよ。伝統生活を守るといっても、スーパーがあって水や缶詰が買えれば、わざわざ狩をするよりは、どうしたってそっちへ行きますよね。だから冷蔵庫には食べ物を貯蔵しています。でもこの間行った家なんかは、冷蔵庫を開けたら靴が入っていました。ここでは物入れになっているのかな、と思いました。

*それでは、5万年も続いている彼らの文化、伝説とか伝統的な生活様式や技術、アートなどは、次の世代に伝承されているのでしょうか?

 それはされています。何万年もの昔から伝承されたストーリを自分がしっかり受け継いで、それを次の世代に伝えなければならない、という任務、使命感のもとに、やっている人も少数ですがいます。それはそれで素晴らしいことなんです。でも、伝承されたお話を伝統的なテクニックで描いても、それでみんなが即アーティストになれるか、というとそうではないのですね。やっぱり個人差があって、他者が見ていい、と思うのとそうでないのがあるわけです。だからペインターはたくさんいますが、アーティストになれる人はほんの少しです。

*若い世代にも、おじいちゃんおばあちゃん、お父さんお母さんから聞いた話を、一所懸命描いている人たちがいるわけですね。それは先祖の文化を伝承していこう、という気持ちからですか? お金とは関係なく。

いや、お金になるから、という理由がほとんどではないですか、残念ながら。でも、彼らにはやることがでてきたわけですよ。絵を描いて、それが売れるという。それはとてもいいことだと思います。いいアーティストになると1日何千ドルになるのですよ。ナショナルギャラリーとか、国が何十万ドルというお金を出して買うのですから。

*欧米のモダンアートは20世紀後半で、もう行き着くところまで行ってしまった、という感じですよね。そういう状況で、アボリジニーアートというのは、すごく新鮮に写るんでしょうね。ヨーロッパやアメリカのオークションでは、すごい高値がついていますよね。インベストメントの対象にもなっているし。日本ではどうなんですか。
日本はぜんぜん違います。前にも言った様に、アボリジニーアートって、何それ? という人がほとんどですから。シドニーオリンピックの開会式でアボリジニーという先住民がいる、ということがやっと少し認識された、という具合なんですよ。
*マーケットを広げる以前の問題ね。全くのパイオニア。まずアボリジニーアートそのものの存在を知ってもらわなければならない、という。今は独立してご自分で仕事をしていらっしゃるのですね。起業されたのはいつですか?
日本での展覧会が終わったすぐ後で、3年前です。今は、だから商品として絵を売買するだけでなく、アボリジニーアートを広めていきたい、と思っています。この間、アデレードへ行ってきたのですけれど、2006年が日豪友好条約の30周年記念になるのだそうです。そのために日豪両国でイベントを組むわけです。アデレードにオーストラリア大使館の広報部、日本からは読売新聞など、関係方面の方が見えていました。オーストラリアから日本へどんなイベントを持っていけるかという視察、協議に見えていたのです。そこに私も参加して、日本でアボリジニーアート展の第2弾はどうですか、ということでプロモーションをしに行きました。反応は良かったです。
*アートの強みは、言葉を通さないで、じかに相手の感性にうったえられる、ということですよね。
ほんとにそうです。それはつくづく感じます。アートに理屈や国境はないって。84才になるおばあちゃんがいて、とってもいい絵を描きます。彼女の個展を今度東京でやろう、という企画もあるのですよ。
*真弓さんはこの仕事を、まったくゼロから始めたわけでしょ。アボリジニーアートギャラリーに雨宿りに入ったのがきっかけで。それでそこまでやれるなんて、本当に素晴らしい!
いいえ、いいえ。でも思っていたことが形になる、というのは本当に自信を持たせてくれました。でもくじけましたよ、何度も。やっても、やっても日本側ではちっとも反応がないんですもの。
*でも、今はだいぶ状況が変わってきた?
反応が前よりは大きくなってきましたし、日本から絵を買いたい、という問い合わせも増えてきました。それはそれでうれしいのですが、私はアートディーラーにはなれませんね。私にとって、彼らのアートは作品であって、商品として見られないのです。商品として見るのであれば、彼らの村に行った時も、売れそうな絵に目をつけて買い、安く買って高く売る、ということになります。私はやっぱり、売れそうな絵ではなくて、いい絵が欲しい。そしていい絵を手に入れたら売りたくなくなってしまう。
*愛しすぎてしまったのね。アボリジニーアートや人々を。
そうかもしれない。ディーラーのなかにはアボリジニーアートの売買で、一攫千金、大金持ちになった人もいるんですよ。でも私は絵の売買よりも、この素晴らしいアボリジニーアートを日本の人たちに、もっと知ってもらいたい。とにかく絵をみてもらいたい。だから展覧会とかイベントのコーディネーターの仕事に力を入れていきたいと思っています。

*今日はお忙しいところ、お時間をさいて、インタビューに応じてくださり、ありがとうございました。


インタビュー:スピアーズ洋子  

(c) Yukari Shuppan
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