Yukari Shuppan
オーストラリア文化一般情報

2002年~2008年にユーカリのウェブサイトに掲載された記事を項目別に収録。
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インタビュー (41)    坂本敏範                                 
  
この欄では、有名、無名、国籍を問わず、ユーカリ編集部で「この人」を、と思った人を紹介していきます。 今月は メルボルンを根拠に活動していらっしゃる和太鼓演奏家、坂本敏範さんをお訪ねしてお話を伺いました。
 
*オーストラリアにいらして何年になりますか?

1995年に来ましたので丁度10年になります。

*オーストラリアに来たきっかけはどんなことから?

ゴールドコーストに友だちが住んでいたので、最初はホリデーに友だちを訪ねて来ました。その時にゴールドコーストとシドニーに行って、豊かな国だな、という印象を受けました。以前から海外進出の夢は持っていたのですが、それからしばらくして雑誌を見ていたら海外日本語アシスタント教師募集、という広告が出ていたのをみつけました。いく先がオーストラリアだったので、これはなかなかいいな、と思って応募して、まずは日本語のアシスタント教師として来豪しました。それが1995年でした。

*そうですか。それでは最初は太鼓とは関係なかったのですね。

ええ、全然関係なかったですね。よく太鼓を広める為にオーストラリアにきたのですか?と訊かれるのですが、きっかけは今言ったようなことで、海外生活をちょっと試してみよう、と思って来たわけです。日本ではサラリーマンをしていました。日本語アシスタントは9ヶ月の契約だったので、9ヶ月過ぎたら日本に帰って、またサラリーマン生活に戻る予定でした。ですから仕事も休職扱いにしてもらって来ました。

*その予定が大幅に変わってしまった理由は?

9ヶ月間アシスタント教師をしていた間に、学校で太鼓の演奏をボランティアでしたりしていました。それを聞いたアシスタントのプログラム・コーディネーターが、もう一年延長して他の学校でも太鼓の演奏をしてみてはどうですか、 と助言してくれました。太鼓を通しての僕の活動もサポートしてくれる、ということだったので、それではもう一年いようか、ということになったわけです。

*そうだったのですか。それでは日本では太鼓は趣味でされていたのですか?

そうです。熊本のサークルで週1回叩いていました。元々はお祭りの太鼓だったのですが、お祭りだけだと年に1回だけで、それではつまらないからもっと活動の場を増やそう、ということで他の組み太鼓などを見て研究し、自分たちで創作したりして、結婚式やいろいろなイベントで演奏していました。オーストラリアに最初に来た時は、小さな太鼓を二つ持ってきて、アシスタント教師をしていたジーロングの学校で、日本文化紹介の一つとして太鼓を叩きました。その地域には他の学校にも、日本人のアシスタント教師がいて、彼らにうちの学校にも来て演奏してくださいよ、といわれて近辺の学校で太鼓を演奏しました。それがきっかけでオーストラリアの学校を廻って太鼓を叩くようになりました。

*そうなのですか。それで坂本さんが和太鼓を始めたのは、いつ頃で、なにか特別なきっかけがあるのですか?
太鼓を始めて19年になります。最初東京でサラリーマンをしていて、熊本に帰って来た時に、地元の祭りに関わりたいと思って、お囃子のグループに参加しました。お囃子には笛、太鼓、ラッパがあって、僕は実は吹き物の方をやりたかったのです。ところが先輩に「太鼓が足りないから、お前、叩け」といわれまして、「じゃあ、前夜祭までは太鼓を叩くけれど、お祭りには吹き物をやらしてください」という約束で始めました。ところが、実際のお祭りでも人数不足で太鼓を叩かされることになってしまいました。
*そういうきっかけだったのですか。
そうなんです。だから始めた時はもう26歳になっていたのかな。うん、26歳のときに初めて太鼓を叩いたのです。でもまだその時はあまり太鼓に興味はなかったんですよ。嫌々やってたんで。その祭りが終わった後、「1年に1回で終わりにしたんじゃもったいないから、グループを続けて行くことにしたからお前来い」と先輩に言われて参加しました。でもぼちぼち、なんとなくやっている、という感じでした。ところがある時、熊本に沖縄の太鼓チームが来て、見に行くと、それが凄い迫力で感激したんです。生まれて初めてでした。あんなに感動したのは。幕が下りてもしばらく席を立てませんでした。それまで僕は祭りの太鼓しか知らなかったものですから。舞台の太鼓を初めて観て聞いて、こういう太鼓があるんだ!ということで、それからちょっと夢中になりました。それからですね。他の太鼓の舞台を観に行ったり、ビデオをみたり、先生を招いたり、自分たちで曲を創ったりして、どんどん力を入れるようになったのは。
*そうですか。私もメルボルンで初めて和太鼓の舞台を観て聞いた時は感動しましたよ。それで趣味から始まった太鼓を、現在オーストラリアで続けていらっしゃるわけですが、日本語のアシスタント教師として来られた時は、そんなつもりはなかったわけですね。
全然。ただ従兄弟がカナダに住んでいるので、カナダに行ったりとかして外国生活には興味をもっていました。海外に住んでみたい、という気持ちはもっていたので、周りの人が僕のそういう意向を察して、僕がオーストラリアに滞在できるようにいろいろ力添えをしてくれました。周りの人には本当にお世話になりました。
*周りの人、というのはオーストラリア人ですか?
はい。学校の先生やプログラム・コーディネーターの方たちですね。
*アシスタント教師をしていらした時は、日本語と太鼓とどちらに力をいれていたのですか?
最初の1年はもちろん日本語ですが、2年目に入った時に、「太鼓教室を開いてみたら?」といわれて「暇だから、じゃあやってみるか」といって始めました。
*では本格的にオーストラリアに移住しよう、という気になったのはいつ頃ですか?
2年目を過ぎた頃からビザのことが気になってたのですが、幸いにエンターテーメントビザがとれました。その頃からオーストラリアに住もうという気になって、3年目で永住権の申請をしました。
*それで太鼓教室はジーロングで始めたのですか?
1年目はジーロングでしたが、2年目からはメルボルンに移っていたので、メルボルンのノースリッチモンドで始めました。最初は4人でした。
*太鼓を習いに来るのはどのような人ですか?
2人は知人の友だち、他の2人は日本から来た太鼓チームの舞台をみて興味をもった、という人でした。その後は、日本へ行った時に和太鼓を知る機会があって、メルボルンに戻ってから習いたいと思っていた人などが来るようになりました。また、イベントなどするようになってくると、その舞台を観て興味をもった、という方たちが教室に来るようになりました。
*それで現在は何人くらいで?
80人です。ほとんどが成人で学生が1割くらい、小さな子供のために親子教室も始めました。
*4人から始めて80人になったのですね。公演とか、他州の学校を廻っての演奏会とかで出張されることが多いそうですが、その場合お教室の方はどうなるのですか?
教室の上級組はもう7、8年続けている人がいますから、僕が留守の間は彼らがめんどうをみてくれます。家内の順子も太鼓をやりますので、彼女も手伝ってくれます。大変力になってくれて、もう僕の片腕となってくれています。
*オーストラリアにいらした後に同郷の方と結婚されたのでしたね。奥様はもうすっかりオーストラリアの生活にお慣れですか?
ええ、でも最初はずいぶん落ち込んでいました。
*どんな理由で? 言葉とか?
言葉はもちろんですが、環境の変化ですね。友人関係も最初は僕の友だちか、僕の友だちを通してしかいなくて、仲の良い友だちは皆日本ですから、話し相手もいなかったりとか。
*そうですね。それは海外で誰でも一度は通過しなければならない過程ですね。でも今では坂本さんの支えになるくらいになられて、太鼓を教えることもできて、ご立派ですね。ところでこれまでオーストラリアで太鼓をされてきて、困ったことなどありましたか?
比較的、順風満帆にやってこられたんですよ。これもまわりの皆さんのお蔭なんですけれど。そうですね。そういえば音がうるさい、という苦情をもらったことが何回かありますね。太鼓の音は大きいですから練習場をみつけるのがなかなか難しいですね。音が原因で追い出されたこともあります。窓に携帯用の音を遮断するものを張りつけたり、太鼓にタオルケットをまいたりとか、いいろいろ工夫しています。あまり離れた所では生徒さんが来るのが大変だし、町の中の、住宅街ではなくて工場地帯などで場所があれば丁度いいんですけどね。場所を探すのがむずかしかったですね。それと今でこそ太鼓もたくさんありますが、最初は小さな太鼓4つではじめたんです。それからは、来豪する家族や友人に頼んだり、帰国の度に持ってきました。
*数年前にメルボルン市のイベントで、戦争記念碑の前の広場での公演が、退役軍人の反対で中止になったことがありましたね。
そういえば、そんなことがありましたね。僕らの太鼓はお祭りの太鼓なんで、戦争とは関係ないんですけどね。
*昔のヨーロッパやアフリカでは、戦う時に太鼓の音に鼓舞されながら敵に向かって行く、という習慣があったみたいですね。それにしても第2次世界大戦で日本と実戦を交えた人のなかには、いつまでたっても、しこりが残っている人が多いようですね。特に一部の退役軍人の間では。一般人の間ではもう戦争のしこりはほとんど消えているようですが。それであの時の太鼓演奏は場所を変えて行われたのでしたね。

そうです。主催者側が場所を変えたので、そのことで別に問題にはなりませんでした。その後ずっとそういった問題はないですね。

*オーストラリアで坂本さんが初めて主催した太鼓の公演はいつですか?
公演というよりは太鼓教室の発表会だったのですが、1998年です。この時の会場は退役軍人会のホールでした。
*あらまあ、そうだったのですか!どういういきさつで?
知り合いのダンサーが練習場に使っていたので、聞いてもらったら、すぐにOKをもらったんです。家族や友人ばかりの内輪の発表会でしたが、100人くらい来てくれたのかな。その時生徒が喜んでくれたので、やって良かったと思いました。やっぱり発表の場、というのは大切だな、と思いました。それから毎年1回やろう、ということになって、続けています。実は教室をスタートして、今年は10年目になるんです。それで10周年記念をやってみようかと思案中です。
*コンサートなどでの聴衆の反応はどうなのでしょう。これまでやってこられて印象に残っていることはありますか?

シティにある教会で行ったコンサートに、永住している日本人の年配の女性がいらして、戦争花嫁の方だったのかな。涙を流しながら聞いてくれて、「この年になって、メルボルンで日本の太鼓が聞けるとは思いもよりませんでした」といって喜んでくれたので、ああ、やって良かったな、と思いました。それがとても印象に残っています。

*実は私もメルボルンで初めて和太鼓の舞台を観た時は、すごく感動しました。こんなに素晴らしいものだったのか、と思いました。日本にいた時は全く興味がなくて、盆踊りでやぐらの方からお囃子の太鼓の音が聞こえてくるな、ぐらいの印象しかなかったのですが。舞台の太鼓を聞くと、音がお腹に響いてきますね。それに太鼓を叩いている時の、日本人の姿、体型っていいな、と感じました。とってもステキでしたよ。バレーダンスなどとは全く異なる美しさが、身体の動きにあると思いましたね。
そうですね。日本ではあまり知らなかった人が多いですね。でも最近は日本でもかなりのブームのようで、村おこし、町おこしやらで、太鼓をするグループは全国で1万以上あるそうです。グループには小さいのもあれば大きいのもありますから、かなりの人が太鼓を打っていることになります。
*ところでミュージシャン、アーティスト、ライター、映画俳優、監督、スポーツマンなどもそうですが、それだけで生活していくというのは、なかなか大変なことですが、坂本さんの場合は太鼓だけで?
僕も最初の3年はアシスタント教師のコーディネーターと太鼓教室と2足のわらじをはいていました。4年目からフリーランスになって、だんだんと太鼓に比重を移していきました。現在は学校訪問、学校での日本文化紹介を兼ねた公演が主になってきています。エージェントがありまして、そのエージェントが毎年ツアーを組んでくれて、今月も4週間、クイーンズランド州の学校を廻って演奏することになっています。
*それは坂本さんお一人でなさるのですか?
尺八奏者のアン・ノーマンと一緒です。子供ができる前は順子も一緒で3人で廻っていましたが、今は順子はメルボルンで子供と太鼓教室の方をみてくれていますので、2人だけです。
*お子さんは何歳ですか?
3歳半です。
*もうそんなになりましたか。今が一番かわいい時ですね。好きな太鼓を打って暮らしていけて家族にも恵まれて、いいですね。昔も今も好きなことをして生きていく、というのは至難の技ですからね。太鼓、お好きなんですよね?
そうですね。好きで始めて仕事になったら嫌いになるかと思ったら全然そうじゃなくて、やっぱり好きですし、自分で太鼓を叩いている時も教えている時も楽しいし、舞台で演奏するともっと楽しいし、こんなに幸せでいいのかな、と思うことがよくあります。
*まあ、なんて素晴らしい!
やっぱり教えるにしても、自分が好きで楽しんでいる、ということが大切なんじゃないですか。楽しさが伝わる、というか、やっぱりそれが一番でしょうね。生徒さんの中には、直ぐ覚える人もいれば、少し時間のかかる人もいます。でも時間が経つと、ちゃんと打てるようになってきて、そうするとこちらもすごくうれしいですよね。そういう喜びもありますね。
*オーストラリアで太鼓を教えたり演奏しているのは坂本さんだけですか?
僕の知っている限りでは、日本人ではブリスベンの丹波さん。あとアデレードに2チーム、タスマニアに1チーム、メルボルンでは女性だけのチーム紫太鼓や小学校の太鼓クラブチームもあります。メルボルンが一番盛んなんじゃないですか。
*太鼓はリズムがはっきりしているしダイナミックなので、オーストラリア人にはうけるんでしょうね。
そうですね。太鼓は単に音楽というよりは身体全体で表現するもので、どちらかというと演舞と言った方がいいのかな。音楽でありながら身体全体を使って表現するというのは、西洋の音楽のジャンルにはないですよね。全身全霊で打ち込む姿に、東洋の思想や禅の世界を感じる人もあるようです。それにやっぱりダイナミックですよね。
*和太鼓は日本人の体型に合っているのではないですか。太鼓を打っている時の日本人の男性は、とてもカッコよく見えますよ、ちょっとセクシーで。でも女性がやってもステキですね。
(笑い)うちの奥さんは、台所より舞台に立っている方が生き生きしていますよ。教室でも女性の方が7割と多いです。女性は忍耐強いというか執念深いというのか、男性はあきらめが早いですね。他の楽器の場合は、ちゃんとした音が出せるようになるまで時間がかかりますが、太鼓は打てばすぐ音は出るのでとっつきやすい、ということがありますね。
*でもやはり難しいんでしょ。
簡単だと思えば簡単だし、難しいと思えば難しい。3ヶ月やれば3ヶ月なりの楽しさがあるし、3年やれば3年なりの難しさ、楽しさが生まれてきます。やりながら発見していくものがありますね。太鼓の面は鏡というのです。その人を映し出す、ということですが、同じ太鼓でも打つ人によって音が違ってくるし、その人の気持ち、感情が出てくるのです。せっかちな人はせっかちな音を出しますし、個性が出てくるのですよ。
*では同じ太鼓を同じ人が打っても、その時によって音が違う、ということもあるのでしょうね。太鼓の音によって、その日その人に何があったかわかってしまう、ということもありうるわけですね。でも太鼓を打って気持ちの発散もできるのでしょう。
そうですね。運動にもなるし、ストレスも解消できます。
*でもリズム感がないとダメでしょう。
そうでもないですよ。最初は難しいかもしれませんが、だんだん慣れてきます。ただオーストラリア人は集団で何かをやる、ということに慣れていない人が多いでしょう。僕はよく練習でも、「チームワーク」ということを口にして、仲間の音を受け入れろ、というのです。相手の音を聞きながら、それに自分の音がピタリと合った時が、心地いいんです。太鼓というのは、細やかな音階が出せないモノクローム的な楽器ですが、奏でる音と音、その音と音の間に自分の音を入れていったり、重ねたりして他の音との調和の心地よさを味わう、というのが叩いていくうちにだんだんわかってくるんですよ。
*パフォーマンスの機会はどのくらいあるのですか?
月に2,3回ですかね。各地域のフェスティバルから企業のイベント、プライベートのパーティ、といろいろですね。エージェントから要請があって行ったり、ローカルのミュージックフェスティバルに自分たちから働きかけることもあります。
*そうですか。色々な面で軌道にのってきたわけですね。
1996年に太鼓教室を始めて今年で10年になります。今回初めてチャリティー・コンサートを主催しました。つい昨日だったんですけど。スマトラ島沖地震津波の寄付を募るためのコンサートだったんです。これからはこういうことも続けてやっていきたいと思っています。生徒には発表の場が必要ですし、お客さんが来て楽しんでくれれば、それがうれしいし、その上お金を払ってくれれば、それを寄付することができるわけですから。今までは自分たちのことで精一杯でしたが、これからは周囲をみて、社会に役に立つこともやっていきたいと思っています。
*そうですか。それは本当に素晴らしいことですね。今日はお忙しいところお時間をいただいて、いいお話を聞かせていただきありがとうございました。
 

インタビュー:スピアーズ洋子


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