Yukari Shuppan
オーストラリア文化一般情報

2002年~2008年にユーカリのウェブサイトに掲載された記事を項目別に収録。
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インタビュー ( 43 )    岡本功                                
  
この欄では、有名、無名、国籍を問わず、ユーカリ編集部で「この人」を、と思った人を紹介していきます。 今月は NEC Australia の社長職を約10年間されて現在はリタイヤー。オーストラリア建国100年にはオーストラリア政府から記念メダルを受章された岡本功さんにお話をうかがいました。
 
*オーストラリアにいらしたのはいつ頃ですか?

長期滞在は今回が2回目です。NEC が工場建設に着手したのは1969年で、工場完成の1971年に7人の日本人スタッフが来て、僕は営業担当で仕事を開始しました。それが最初のオーストラリアです。34年前ですから、僕も若かったですよ。日本ではまだ係長という役職だったのですが、仕事には自信を持ってましたね。

*働き盛りですね。オーストラリアは初めての海外だったのですか?

オーストラリアの前にバンコクの主席駐在員をやりました。その時は若造のくせに威張ってたね、今から振り返ると。まだベトナム戦争の最中で、アメリカの駐留軍が5万人ぐらいいたのかな。良いアパートに入ると周りはほとんど米軍でしたね。米軍の将校たちの家族と一緒に住んでるようなものでした。将校たちはベトナムの戦地に行っていて留守でしょう、将校の奥さんたちは暇そうだったね。米軍にPXというのがあるでしょ。米軍しか使えない店ですよね。そこから牛肉などを買ってきてくれたりしましたね。バンコク、シンガポールなどには良い牛肉がありそうでないんですよ。あっても水牛とかで、だいたい牧場がないですからね。だからアメリカの牛肉はすごく旨かった、なんていうヘンな思い出がありますね。僕はまだ20代の後半でしたが、もう結婚してました。子供が2人当地で生まれて、子供たちは、しばらく日本とタイの国籍を持っていました。上の娘が1歳、下の娘が生まれて3ヶ月の時に日本に帰りました。

*それからしばらく日本にいらして、その後メルボルンにいらしたのですね。NEC建設の最初からかかわられたのですか?

いえ、工場建設には建設チームというのがありますから、僕は完成してからきたのですが、工場は完成していても作るものがなかったんですよ。注文がないので。

*はあ?では、何を生産して売る、という具体的な計画のないままに、工場を先に建てたんですか?
その頃の政府の方針で、ここで仕事をしたかったら、まず、工場を作れ、そして国産をやれ、ということだったんです。その頃、オーストラリアでは、ほとんどのメーカーはヨーロッパ勢でした。イギリス、ドイツ、スエーデン、オランダとか。アメリカの会社はオーストラリアを馬鹿にしてましたね。マーケットが小さすぎるんで、オーストラリアには進出してきませんでした。日本に対してはまだ差別があって、工場を先に作れ、とか要するに来なくていい、という態度でしたね。通信機具はフィリップ、シーメンスなどのヨーロッパ勢で占めていて、輸入もしているから要らない、日本から買う必要はない、ということだったんですよ。
*にもかかわらず、そんなに早期からオーストラリアに工場を建てたということは、後に世界のNECになるだけあって、当初から長期の見通し、計画があったのですね。
そうなんですね。当時の会長は小林宏治という、非常に有能な方で、もう亡くなりましたけれど。オーストラリアは現在人口は少ないけれど、国が大きいし資源が豊富だから50年先にすごく良くなる。50年先に良くなるのはオーストラリアとブラジルだ、といわれまして、オーストラリアに投資をしよう、ということになったわけです。それで無理してやったわけですが、なかなか注文を出してくれませんでしたね。僕は最初バンコクに行って営業をやって、日本に帰ってきたら、本社に「海外グループ」という海外の動きを見ている部門があって、そこから、「お前、オーストラリアへ行って注文とって来い」と、いわれたわけです。それで営業の責任者としてこちらに来ました。
*それは責任重大な大変なお仕事ですね。特に当時としては。
そう、まだ差別があったしね。人種差別とかね。アジア人を入れないゴルフ場もありました。メンバーにはなれない、という。一時そのことで論争が起きたんですよ。うちの会社のエンジニアの一人が、オーストラリア人にサポートしてもらってあるゴルフ場の会員になろうとしたんですが、日本人だということで会員になれなかったのです。そのことについてサポートしてくれたオーストラリア人が怒って、「オーストラリアン」という全国紙の新聞に投稿して、論争になって社説にまで取り上げられました。その頃からですかね、少しずつ日本人が見直されてきた、というのは。そのうちに日本の産業、経済も勢いがついてきましたからね。だんだん対等になってきましたけれど。それで話を元に戻すと、工場は建てたものの、オーストラリア側は何も買ってくれないのですよ。当時、電子機器、通信関係の機器というのは政府関係しか買わなかったですから。日本でもそうでしょ。昔は政府が全部管理してたでしょ。オーストラリアでも今はテルストラといっていますが、その前はテレコム、その前はPMGといっていました。ポースト・マスター・ジェネラルズデパートメント(郵政大臣のデパートメント、郵政省)といってました。
*政府に売り込まないといけないわけですね。
そう、それで当時の僕の仕事といえば、毎日のように、「こんにちは」といって、PMGに御用聞きに行っていたんですよ。そのうちに向こうも「かわいそう」と思ってくれたのか、「お前、そんなにゴルフが好きなら一緒にやろう」とか言い出して、さっきもいったゴルフ場に連れて行ってくれたりしました。モーニントンにも重要人物がいてモーニントンのゴルフ場の会員だったので、「じゃあ、僕もモーニントンのゴルフ場の会員になる」といったりして、もう寝技ですよね。この寝技というのはバンコクで学んだんですけれど。
*では、当時オーストラリアでも寝技が必要だった?
いやいや、本来の意味でのそれはなかったですね。ただ親しくなってくると、それとはなしに情報をもらしてくれる、ということはありました。やっぱりそれは人間関係ですよね。ある親日家などは「相手はこのくらいでオファーしているぞ」とか。そうするとあわてて値引きの手紙を出したりするんです。それでも一旦入札すると、ここは値引きなんかは全然受けつけないから、そういう意味では非常にフェアだったですね。しかし中には面白い奴がいて、一緒に飯食ったり、酒飲んだりしているうちに、俺を雇ってくれないか、と言い出す奴がいたりしました。
*オーストラリアでの最初の大きな仕事はどんなものでしたか?
シドニーからブリスベンに無線回線を建設する仕事がありました。これはソリッド・ステーツというトランジスターを使ったシステムで安定して長持ちするんです。それは日本が初めて開発したのですが、それを使ってやりました。しかし、これは工場ができる前に NEC がやった仕事で、非常に評判が良かったのです。それが NEC がオーストラリアに進出したきっかけですね。ところが工場ができてからは、もうそれは当分要らない、ということなんですよ。そんな大工事はめったにあるわけではないですから。しかし工場を建てたので、そこに関わっている30人ほどの人たちが食べていかなくてはならないわけですからね。ブレッド・アンド・バターになる基本製品は何だろう、何を作ったらいいんだろう、って当時はしょっちゅうそういう議論ばかりしていました。
*それで最初に作ったのはどのような製品ですか?
「マルティプレックスという音声を多重化する機械を緊急買い付けしたいが、製品が足りなくて困っている、日本製でもいいから持って来てくれ」、ということがありました。あいにく手持ちがなかったんで日本から取り寄せて、それを持って行って、わずかですが買ってもらいました。そしたらそれがとても安定していていい、ということでした。当時現地にあったフィリップス、シーメンス、プレッシーの三社の製品よりもいいから、次からテンダーに参加しろ、と言われました。1年に1回テンダーの買い付けが定期的にあるのですが、このチャンスは絶対に逃したくない、ということで、すごく頑張った値段で出したんです。それで初めて注文がとれました。これはしょっちゅう買い付けていかないといけない製品で、コンスタントに需要のある製品なんですよ。
*どういうものに使うのですか?
電話などの回線の末端に付けると、1人だけでなくて12人使えるんです。2個付ければ24人、というように増やせます。マルティプレックスの略でマックスといってますけど、要するに多重化装置です。それは簡単な製品なんですが、町が発展して人口が増えれば電話回線も増える、ということで需要は必ず増えていくものなんですね。それを国産し始めたわけです。これまで現地で生産していた欧州の会社は、ずいぶん文句を言ってましたね。さっき言った3社のなかに、日本の会社が割り込んでいった形になりましたからね。
*でも自由競争ですものね。

そう、それで、やっとブレッド・アンド・バターに相当する製品の生産の目どがついて、これからは少し楽をしよう、と思っていた矢先、日本に呼び戻されました。

*海外赴任の場合、ご家族のことも大きな問題ですよね。特にお子さんの年齢によって、中学、高校、大学受験などの学齢期の場合は、単身赴任される方も多いようですが、岡本さんはどうされたのですか?

僕の場合、最初の時はまだ娘が4歳と3歳だったので家族同伴でした。帰国の時は小3と小1だったため、教育上の問題はないようでした。2度目の時は、娘の年齢的なこともあって単身赴任でした。今は帰国子女の大学入試特別枠もできて、事情が考慮されてきているので、できるだけ家族同伴した方がよいと思いますね。

*帰国されて、日本にはどのくらいの期間いらしたのですか?
呼び戻されて帰国したのが1975年で、東京の本社の課長になって、ずっと長いこと日本にいましたね。オーストラリアでの需要がどんどん増えてきたので大洋州部なんていうのを作ってもらって、その部の初代の部長になったりしていました。僕の海外駐在は最初バンコクで、69年に帰国して、71年にオーストラリアに来て4年駐在して、その後は、20年近く東京の本社にいたんですよ。その間にアメリカのコンピューター担当の営業部長になって、その後、カナダも含めた北米担当の支配人(バイスプレジデント)になりました。
*すごいですね。会社の出世コースをひた走るエリートでいらしたのですね。
いや、北米担当の支配人になったんで、アメリカを何とかしようと思ったのですが、アメリカは苦しかったね。7、8年北米担当やってましたけどね。
*80年代90年代の前半というと、アメリカの景気が悪かった頃ですか?
一時良くなって、また落ち込んだのです。アメリカにはNECの会社が7つあったんですよ。その役員会に出るだけでも、度々アメリカに行かなければならなくて、年中アメリカに行ってました。家より飛行機の中かホテルで寝る方が多かったですよ。時差で体調もめちゃくちゃになるしね。
*それはずいぶんとハードな生活ですね。

僕が東京本社の窓口になっていたでしょ。だから朝早くアメリカから電話がかかってくるんですよ。週末の朝早く起きてゴルフに行こうと思っていると、長い電話がかかってきたりしてね。向こうは金曜日の会社の引け時ですから。

*アメリカ相手のビジネスというのは厳しいというか、相手が手強いのではないですか?
そう、規模も違うしね。ボストンにあるNECのコンピューターの会社は、こことは比較にならないくらいの規模ですよ。それとアメリカのトップはもの凄く働くね。命をかけて仕事をしている、というような気迫があるよね。夜の食事にしたって、オーストラリア式に「エンジョイ、ディナー」なんていうと、何をエンジョイするんだ、というようなヘンな顔してたね。こちらは食事くらい楽しもうと思っているのに、仕事の話を止めないもんね。実績主義だから、仕事をして売り上げを上げないと、自分の給料が減るわけだから。
*その代わり報酬もケタちがいでしょう。
そう、幹部はもの凄く高い。だから家なんかもオーストラリアの家に比べると規模が違う。現地のNECの会社のアメリカ人の社長は、ボストンの海岸のそばの家に住んでいたけれど、自分の家の敷地から海に向かってゴルフができるくらい広い所に住んでいました。地下に映画室とジム用の部屋があってね。もうスケールが違う。人口が多いから売り上げの金額が違うんですよ、オーストラリアとは。
*それでは日本にいらした間もほとんど海外を飛びまわっていらしたのですね。

そうそう、航空会社が喜んでましたよ。

*日本経済がちょうど絶頂の70年代半ばから90年代半ばの20年間に、NECの東京本社にいらしたのですね。
そうですね。だけどオーストラリアは80年代後半はずいぶん落ち込んでましたね。88年から91、2年までダメだったですよ。その頃、NECオーストラリアは大変だったと思います。本社の支援でやっと立ち直り、今度は僕が責任者として来る事になったのです。オセアニア地域の代表ということで、オーストラリアを含むハワイまでの地域が担当でした。
*93年からの2度目の赴任はどのような目的で?
オーストラリアにはNECの会社が4つあったんですよ。コンピューター関係と家電の2社がシドニー、通信関係の会社がメルボルンにありました。これを統合して、合理化して、利益を上げる、というのが僕の任務だったんです。しかし、一口に統合といっても、みなそれぞれ独立してやってましたからね。生産品、指示系列、経営システム、それぞれ違うから大変なことなんですよ。またコンピューター関係はソフトウェアーが中心で、ソフトウェアーの開発をやってる連中は威張っててね。我々は時代の先端をいっているのだ、ということでね。それでも苦労して、オーストラリアの4つの会社を併合しました。それともう一つは、オーストラリア現地での製品開発です。僕はオーストラリアに赴任が決まった時に、本社経営会議で「オーストラリアNECは上場して独立します。本社が仮に倒産したとしても、オーストラリアNECは生き残ります」と言ってしまったのですよ。その場で、それはちょっと言い過ぎではないか、と言われましたけれど。
*すごい覚悟でオーストラリアに赴任していらしたのですね。
そう、現地開発をして生き延びようと思ったんですよ。それで、今でも成功しているのがいくつかあります。失敗もありますが。自立できないで本社の援助がないとやっていけない会社は続きません。僕の考えは、ここで発明しろ、ここで製品開発すれば誰の制約も受けず、世界を相手に輸出できる、ということなのですよ。それで実際に発明したんですよ。前に電話線の末端に取り付ける多重化のことを話ましたが、今度のはADSLといって電話機をデジタル化するんです。そうすると12どころではなくて何千チャネルとできるんですよ。電話線にとりつけてブロードバンドにも使うモデムという機器ですけれど。
*現在、オーストラリアでは一般化してますね。家でもブロードバンドにしているのでモデムを使っています。
そのモデムに使うチップを探しに、何度もアメリカに行ったことがあります。当時はアメリカでもADSLは実用化していなかった。それで現地のスタッフを叱咤激励して、遂に開発に成功。まずはテルストラでの実験に成功し、続いて香港テレコムから初注文が取れたのです。本社は「光」にいくと見て開発を見送っていた。そこへNTTの入札があり、大量受注となったのです。NECオーストラリアは独立した会社なので、同じNECでも日本電気で売る場合は、NECオーストラリアにライセンス料を払わなければならないんです。向こうで作れば作るほどNECオーストラリアは収入になるわけです。シンガポールにもマレーシアにも、ここから直接販売しています。もう海外に直接自由に売れるわけですよ。だから、ここで独自に開発して自分の力でやる、ということが非常に大切なことですね。
*現在のNECの主流はやはりコンピューターですか?
まあ、今はそのようですけれど、世の中変わるものですね。僕らが入社した頃はコンピュータ部門は損ばかりしていて、これさえなければ僕らのボーナスがもっと増えるのに、と言っていたくらいで。コンピューター部門の人たちは会社でも、廊下の真ん中は歩けないよ、と言っていたんですよ。それが今ではコンピューター抜きのビジネスは考えられませんからね。
*あの頃のコンピューターは冷蔵庫くらいの大きさで、もの凄く高額でしたから、まさかこんなに普及するとは思いませんでしたね。
そう、まだパソコンはなかったし。パソコンができてからですね、すごく儲かってきたのは。今、本社の有力者はコンピューター部門出身が多いですね。今のNECの社長もコンピューター部門の出で、僕のアメリカ時代、一緒にコンピューターを売り歩いたことがあるのですよ。
*そのコンピューターの世界もまた変わってきているようですね。
現在、パソコンは簡単に量産できるようになってしまったので、IBM などはパソコンの生産から、他にシフトしてます。ソフトウエアーの開発など他のものに。そうそう、ソフトウェアーの開発といえば、ビクトリア州の道路の信号にカメラを取り付けて、信号無視の交通違反をみつける総合システムを、NEC オーストラリアが最初に開発して設置しました。それでビクトリア州政府は約40ミリオン(約40億円)の罰金の収入があったとかで、表彰してくれました。グレンウエーバリーの警察学校に、僕らをディナーに招待してくれて。ビクトリア州の警視総監の次くらいの人が来て、NEC のお蔭で罰金の収入が増えて、しかも交通の安全が非常によくなった、といって歓待してくれたんですよ。警察のバンド、スコティシュバンドみたいなのが来て演奏してくれたり、そんなことがありましたね。その後、新しい会社が参入してきたり、いろいろあって信号機の総合システムの方は止めましたけれど、一番最初にやったのは NEC オーストラリアなんですよ。
*手がけたことはたいがい成功していますか?
いや、そうでもないです。前の州政府のジェフ・ケネットの時代に、ビクトリア政府のために「マキシイ」という合弁会社を作って、政府の電子情報ネットワークシステムをやりました。政府がマキシイシステム、と名づけて、インターネットまたは電話で政府関係の情報入手、料金の支払いができる、というシステムなのです。今はみなさん当たり前のように思っていらっしゃるかもしれないけれど、今から7、8年前のことですから、最先端を行く画期的なことなのです。ビクトリア政府というのは考え方がすごく進んでいましたね。ガバメントサービスの電子化ということなのです。そういうシステムを開発する、という目的で入札があって、NEC オーストラリアが、将来のために頑張って注文をとりました。しかしソフトウエアーの開発というのは、もの凄く時間と金がかかるんです。だから資金調達が大変だったし、回収は困難でした。しかし、この電子化システムは、ビル・ゲーツが書いた本にとりあげられています。「オーストラリアのビクトリア州政府は、NECオーストラリアが開発したマキシイというシステムを使って、ガバメントサービスの電子化を始めた。これは世界的にも画期的なことで、そのうちに他でも取り入れられていくことだろう。」ということが書いてあります。マキシイ社はビル・ゲーツ賞をもらっています。当時郵政大臣だった野田聖子も、日本は電子化が遅れているから、なんとかしなくてはいけない、ということで見学にきました。マキシはそういうシステムなんだけど儲からなかった。いや本当は儲かるはずだったんですよ。ビクトリア州政府が全部このシステムを使うようにしてくれれば。だけど労働党に代わってからは、それぞれの部門で自由化してしまって、自分の好きな新しい方式を使ってもいいことにしたんです。それでマキシイの独占がきかなくなりました。だけど VIC Road の登録や、メルボルン市の駐車違反の罰金については、未だにマキシイを使ってもらっています。駐車違反の紙が車に貼られているでしょ。その一番初めにマキシシステムで払って下さい、と出ているので、たいがいそれを利用してくれます。
*71年に最初に岡本さんがいらした時は7人の日本人で始められたのでしたね。昨年辞められた時は、どのくらいになっていましたか? 
日本人は一時50人くらいいたかな。現地のオーストラリア人は1500人くらいですね。どんどん現地化してますので、今は日本人の数はかなり減っていると思いますよ。
*すごい発展ですね。1960年代の後半からすでに海外に進出して、80年代には世界のNECになったわけですね。NECは80年代のオーストラリアで最も知られた日本の会社でしたよ。ライフセービングのオカムラさんのコマーシャルが大ヒットで、一世を風靡した、という感じでした。オカムラという名前は子供でも知ってましたからね。
あのコマーシャルは僕が来る前から放映されていました。すごく評判がよかったね。現地の博報堂が制作したんですけど、今でも時々あのコマーシャルは良かったって言われますよ。
*ところでNECはオーストラリア囲碁大会のスポンサーもしていますね。第1回が開催されたのは確か1996年でしたか? 会場は5星の一流ホテルで、とても盛大でしたが囲碁をサポートされるのは何か特別な理由でも? 
 メルボルン囲碁クラブの会長でブラッド・メルキさんというオーストラリア人がいるのですが、彼は日本へ囲碁の練習に行ったりしていて、日本棋院の国際部長をしたこともあるんですよ。それとNECの東京本社は日本棋院のスポンサーもやっていたんです。中国との大会とか、いろいろサポートしてましてね。ブラッド・メルキさんはメルボルンで囲碁大会をやりたくてスポンサーを探していて、NECに頼んだのではないかな、僕も詳細はよく覚えていませんが。NECの関本元会長は碁が好きで日本棋院とは付き合いがあったと思います。
 前に言ったように、僕、しょっちゅうアメリカへいっていたでしょう。会長と一緒にアメリカに行く時はね、たいがい東京を夜発って、向こうのサンフランシスコとかロサンジェルスに朝着くんです。それで夜JALの待合室に着くなり、「さあ、一局やろう」、と言って、出発間際までやるんですよ。僕、碁は学生時代にちょっとやっただけで、それ以来ぜんぜんやっていませんでした。会社に入ったら忙しくて時間がないですからね。関本会長は6段か7段で上手でしたよ。会長は会社に入ってから上手くなったらしいですけど。経団連の副会長もやっていて、忙しく飛び回っていた人なのに。その代わりちょっとでも時間があったら、誰とでも碁をやってましたね。JALは磁石の付いた碁盤を積んでいるんですよ。それで乗ったら、もう直ぐ碁ですよ。会長との座席の間に碁盤を置いて、ずっと横向いて碁を打つわけでしょ。首が痛くなるんです。だいたい9時間ぐらい乗っているんですが、「会長、少し休みましょうよ」、と言ったって、「いや、どうせもう眠むれないから、もう少し」と言って、7時間くらい横向いて打ってましたよ。僕、9目置いて打ってましたけど、負けましたね。今だったら9目も置きませんけどね。シリコンバレーにも半導体を作っているNECの工場がありまして、サンフランシスコに着いたらリムジンに乗って、工場まで1時間くらいかかります。それでまた僕にJALからもらった碁盤を出させて、他の人には「悪いけど、ちょっと前の方に行って座っていてくれ」といって、碁をやり始めるのですよ。磁石の付いている碁盤だから、揺れても動かないんです。そのくらい碁の好きな人でした。
*大変な方から碁を習われたのですね。
その頃はね、NECに限らず、日本は儲け過ぎてアメリカからすごく批判を受けていたんですよ。それで慈善事業とか文化的なことに貢献しなければ、ということで、いろいろな方面で援助活動をしていました。東京の本社に社会貢献室というのがあって、メセナやフィランセラピ活動を奨励していました。碁は一部の人しかしないので、あまり宣伝にならないのですが、囲碁大会の時には他の日本文化を一緒に紹介しよう、ということでスポンサーになりました。碁だけでなく、日本文化を一緒に紹介するという意味あいは、ブラッド・メルキさんも承知していますから、囲碁大会には必ず日本の伝統的なものを加えています。今年は剣道でした。
*オーストラリアにはITの技術面、経済や他の面でもずいぶん貢献なさってきたのですね。そういうことでオーストラリア連邦政府樹立100周年記念にメダルを受章されたのですか?
たぶんそうでしょう。過去100年の間にオーストラリアに貢献した人にメダルが出されたようですが、そのメダルにはエリザベス女王2世の代わりに、ハワード首相が授与する、というようなことが書いてありました。
*勲章ですよね。日本人では岡本さんだけですか?
さあ、よく知りませんが、ビクトリア州では日本人は僕だけのようでした。メルボルンの総領事がお祝いに招待してくれました。今回は友だちや知り合いを連れて来ていいですよ、といわれたので、親しくしている現地人4、5人と一緒に行ったら、その中に同じメダルをもらった人が2人もいました。この勲章は州政府が推薦したのだと思いますが、要するに、僕が会社の責任者だったから選ばれただけのことであって、会社に授与されたのと同じですよ。
*それもあるでしょうが、赴任の期間、無事に任務だけ果たして帰国、というような場合には勲章は出ないでしょうから、やはり岡本さんに、ということではないですか。今では、日本の会社も個人も随分たくさん海外に出ていますが、そういう勲章を授与されるようなことはめったにないでしょうね。それでメルボルンには2度駐在されて2度目は10年以上ですよね。現在はもうリタイアーされて。
そう、会社は辞めたけれど毎日けっこう忙しいんだよね。CEDA(Committee for Economic Development Australia) から招待されたり、Invest Vic. の人たちと話し合ったり、 Japan Seminar House のお手伝いをしたり。
*長い間オーストラリアで社長という立場でお仕事をされてきて、上下関係が希薄なオーストラリア人特有の勤労者気質をどう思われますか? 上司をファーストネームで呼んだり、社長と従業員といえども一歩会社の外に出れば人間として平等、パブで出会ったら「グッデイ、メイト」というような。 
上下関係希薄は非常に良いこと。日本も見習うべきですね。特に日本人のお役人は威張ってましたからね。本省に行くと課長クラスが、会社の社長をよく呼びつけていました。最近は日本のお役人も非常に良くなりましたけど。会社員には会社の方針に従ってもらわねばならないが、会社の外では全く対等でいいと思いますよ。人間、個人尊重、日本もそうなっていくでしょう。メイト精神、おおいに結構、みんな同じ人間だから。人間として学ぶこと多しです。
*長くオーストラリアに住まわれて、現在オーストラリアはどんな国だ、と思われますかす?
オーストラリアは住みやすいのと、それからとにかく人がいいよね、一般的に。中には悪い奴もいるかもしれないけれど。日本では考えられないくらい、純な感じがするんだな。人が良くて親切だから、彼らを騙したり裏切ったりできないね。オーストラリアのために何かしたいな、できないかな、という気持ちを持つよね。それに世界一豊かで安全な国だと思う。
*リタイヤーしてからもオーストラリアに住まわれますか?
はっきり決めていませんが、両方行ったり来たりすることになるのではないかな。僕は身体を動かすことが好きなので、ゴルフとかジムとかダンス、とにかく運動をたくさんしたいと思っています。海外も、まだ北欧とか行っていない国にも行きたいし、足腰が丈夫なうちに。
*ご家族は日本にいらっしゃるのですか? バンコクで生まれた2人のお嬢さんも、もうとっくに成人されていますよね。
そう、横浜の家の近くに住んでいます。4歳の孫も一人います。3ヶ月に一度は会っていますが成長が早いですね。日本もいいけれど、こっちは暮らしやすいからね。オペラ、音楽、絵画など文化生活も身近で気軽にエンジョイできるし。碁も日本より身近で簡単にできますね。
*日本とオーストラリアは時差も少ないですし、行ったり来たりしながら両方の良い面を楽しめたらいいですね。今日は興味深いお話をたくさんして頂き、ありがとうございました。

                                           
インタビュー:スピアーズ洋子

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