Yukari Shuppan
オーストラリア文化一般情報

2002年~2008年にユーカリのウェブサイトに掲載された記事を項目別に収録。
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インタビュー (52)    佐藤真左美                                
  
この欄では、有名、無名、国籍を問わず、ユーカリ編集部で「この人」を、と思った人を紹介していきます。今月は、オーストラリアでバレエを教えていらっしゃる佐藤真左美さんにお話をうかがいました。
 
*佐藤さんはオーストラリアでバレエの先生をしていらっしゃいますが、生徒さんはどの様な人たちなのですか?
私はクラシックバレエをビクトリア州のナショナル・バレエ・スクールのディプロマ・コースで教えていて、将来プロを目指す生徒たちのクラシカルバレエの部門を担当しています。その他、パフォーミング・アートといって、芸能一般を教える学校のなかでクラシック・バレエを教えています。プライベートレッスン、オープン・スタジオで一般の大人にも教えていて、お教室も開いています。

*ナショナル・バレエ・スクールというのは、バレエの専門学校ということですか? 

そうです。10年生(日本では高校1年)を終了してから、15、16才くらいで入ってくる生徒がほとんどですが、バレエの他に普通の学科も勉強するので、国語とか算数はもう教えませんが、選択科目を勉強することができるので、高校卒業資格試験も受けられますし、その成績しだいで大学に入学することもできます。

*日本のバレエ学校とはずいぶん違うのですね。

日本にはこういう制度はないですね。日本ではバレエの生徒さんたちは普通の学校に行って余暇にバレエのお教室、バレエ学校に通う、ということで、そこでの過程を終えても資格証書というのは発行されませんし、それが就職に役立つわけではありません。オーストラリアのバレエ学校はあくまでも専門学校で、将来バレエダンサーになる、ならないは別にしても、ここを卒業することによって、将来専門職を得るために役立つような教え方をしています。
*1学年何人ぐらいの生徒がいるのですか?

20人前後ですね。

*そうすると毎年約20人の卒業生がでるわけですが、その中でバレエダンサーになるというケースは、ごくまれなわけでしょう? 他の人はどうするのですか?

大変なんですよ。海外のオーディションがほとんどのために紹介状を関係するあちこちに書いたり、オーディションに出したりで。マーケットが限られているのでなかなか就職できません。それで海外に出て行く子が多いですね。海外に出るにしてもお金がなくては行けませんから、バレエをだんだんあきらめて、まったく関係の無い仕事に就く子も多いですね。

*先ほどこの国の子は大変だ、とおっしゃいましたが、日本の場合はどうなのですか?
日本の場合はバレエ団体が沢山ありますから、新国立劇場はそのうちでも彼らにとって大きな就職先です。その他にも大きなバレエ団が日本にはいくつもあって、中、小のバレエ団もたくさんありますから、オーストラリアに比べてそれだけ舞台に立つ機会も多いわけです。それでも今の日本で優秀な子は、どんどん海外に出て行くようになりました。ヨーロッパとかアジアとか。海外でもよくやってますよ。
*オーストラリアの生徒の特徴などはありますか?
バレエに限らないと思いますが、オーストラリア人は自然でのびのびしてますね。その代わりあきやすい、あっさりあきらめてしまうところがありますね。教え方も、やたらに身体にさわってはいけないとかあります。お尻が出っ張りすぎている場合、日本だったらお尻を叩いて、引っ込めなさい、というところが、それはしてはいけないのですね。ですから子供を教える教科書もちゃんとあって、私はそれも勉強しました。
*佐藤さんご自身がオーストラリアにいらしたのは、いつ頃、どのようなきっかけですか?
最初にオーストラリアに来たのは1985年で、豪日交流基金の交換留学生として来ました。ビクトリアカレッジに1ターム在籍しました。それで2度目に来たのが1992年で、この時は The Australian Ballet Company に、日本の文化庁から研修生として派遣されて1996年まで在籍しました。それで一度日本に帰って、2002年にバレエ教師としてのディプロマをとるためにまた来ました。ビクトリア・カレッジに入学して、バレエ教師になるためのディプロマコースをとりました。この時永住権を申請したらすぐ取れたので、それからはメルボルンをベースに仕事をしています。
*交換留学がきっかけだったのですね。 
ええ、でも、最初に来た時はもう二度と来たくない、と思いました。
*え?それはどうしてですか?
来た時期が2学期だったのです。6月7月8月、メルボルンの冬でした。その上ホームステイ先がリングウッドで遠かったのです。だから毎朝5時半に起きてシティのカレッジまで通っていましたが、もう勘弁、という気持ちでした。でも2度目に文化庁の海外研修員として在籍した The Australian Ballet Company は、素晴らしいカンパニーで、この時は本当に来て良かった、と思いました。サラリーもちゃんともらえましたし。日本では踊ってお金が稼げたわけではないので、生活の為には教えたり他のことをしなければなりませんでしたから。踊って生きていく為には、カンパニーに入ればサラリーがもらえますから絶対にこの機会は逃したくないと、思いました。受からなかったらバレエを辞める覚悟でチャレンジしたんですよ。
*それで念願の the Australian Ballet Company に入団して、舞台に立つ機会は、どのくらいの割合で?
もう毎日でした。着いた翌日からキャスティングに入って、翌週にはもう舞台に立っていました。1992年の9月22日に着きました。翌朝起きたら、前の晩にファックスが届いていました。もうその日に来るようにということなので、ここかなー、と指定された住所にいってみたら、オフィスに通されて契約の手続きをして、ここがあなたのロッカー、シュールーム、これが今日のあなたのスケジュール、と言われて、もうその日からおけいこに入りました。本当にびっくりしました。翌週にオーストラリアのバレエシーズンが始まりましたから、群舞でしたけれど「じゃじゃ馬慣らし」という二幕ものの舞台に出ました。その後すぐにニュージーランドに公演に行きました。The Australian Ballet Company の団員は、1年のうち5ヶ月はシドニーにいなければならないことになっていて、10月11月はオペラハウス・シーズンといって、オペラハウスで2ヶ月間、日曜日を除いて毎日公演することになっているのです。だからニュージーランドから戻ったら、すぐにオペラハウスで毎日踊っていました。もうびっくりして、最初は何が何だかわからないけれど必死でついていった、という感じでした。その後もずっと、クリスマス前後の休暇3週間と年の真ん中にある1週間の休暇以外は、4年間毎日舞台に立っていました。けれど体調を崩したのをきっかけに東京に戻ることになりました。
*日本ではどうされていたのですか?
7ヶ月ほどはほとんど動けなかったので静かにしていて、それから少しずつトレーニングを始めましたが、これからどうしようかと悩んでいた時に、イギリスのロイヤルバレエの作品を創るピーター・ライト先生から、新しい作品をスターダンサーズ・バレエ団にもっていくから主役をやらないか、という話がありました。私は4年間 the Australian Ballet Company にいて、その間に一番下の役から始まって一番上の主役をやるまでになって、それをこなしてきた実績が自分の中に蓄積されていたからでしょう、何をするにも苦にならなくなっていました。だからカンパニーで働いていた間に、技術や芸術的な面だけでなく精神的な面でも、持続するという強さが養われていたのだ、と気がつきました。ロイヤルバレエのピーター・ライト先生が、あなたが主役をやりなさい、といってくれて、1996年の終わり頃に日本の舞台に復帰しました。それから2001年までは日本でいろいろな作品を発表して、その間に教えることも始めました。
*それからまたオーストラリアに戻っていらしたのですね。やはりオーストラリアの方が合っていた?
私のオーストラリア時代の同僚で、今の the Australian Ballet Company の芸術監督とかプリンシパルになっている人たちとは、日本に帰ってからもずっと友だち付き合いをしていました。彼らが「マサミ、踊るばかりでなく教えることも考えた方がいいよ。僕たちは昼間は踊って、夜は通信教育でバレエ教授資格のディプロマコースで勉強している。踊ることは素晴らしいけれど、教える側のことを勉強すると自分の世界が広がるよ」、と何度も勧めてくれました。では新しいことにチャレンジしてみようかな、と思い始めていました。その時もロイヤルバレエのピーター・ライト先生の一行がたまたま東京にいらしていて、RAD というイギリス式バレエを教える大きな学校がイギリスにあるので、推薦するからそこに行きなさい、といってくれました。でもイギリスは物価が高くて経済的に無理だったんです。それで、はっと気が付いて、イギリスでなくてもオーストラリアでいいじゃないか、と思って the Australian Ballet Company に相談しました。そしたら、うちにはそのような専属の学校はないけれど、ビクトリア・カレッジにそういうコースがあるから、試験もオーディションもなしに入学できるように推薦してあげる、といわれました。ただし、英語が基準に達しているという資格証明だけは、持っていないとダメだ、といわれました。それで英語は日本で勉強して試験を受けてからビクトリアカレッジに入学しました。2002年の1年間は学生に戻って勉強しました。35歳になっていましたけれど。生まれて初めてですね、毎日、稽古場に教科書とノートを持って通学しました。この一年でロシアメソッドのバレエを勉強したので、ロシアメソッドで1年生から8年生まで教える資格をとりました。これがないとバレエ学校には就職できないのです。
*すごい努力家でいらっしゃるのですね。
あの時の34歳から35歳にかけての1年間は、生まれて初めての、ほんとうに貴重な体験でした。当時の学生たちはほとんど私より年上で、自分たちのバレエ教室を持っている人たちが多かったのです。その人たちと友だちになれたので、彼らが、「マサミ、教えに来てくれる?」、と声をかけてくれたり、たまに一緒に公演をしたりしています。
*演劇などの俳優は60歳過ぎても続けている人がいますが、バレエの場合は動きが激しいからか、早く舞台を退くみたいですね。
でもね、バレエに於いても、20代の若い時と30代半ばから40代前半の時と比べて、どちらが動きがしなやかで味があるか、というと、それは30代からだ、といわれているのですよ。トウシューズをはいても裸足でも自分の身体で何かを表現する、という表現力は30代になってからの方があります。私も若いときにデビューして、その当時には気が付かなかったのですが、現在の自分と比べてみて、それはわかります。今では1分1分、1クラス1クラスがとても大切なので、自分は今日ここで練習ができる、踊れるのだ、ということに対する集中力が違いますね。それと今では教える立場が多くなって舞台に立つチャンスは少ないのですが、舞台にたった場合に、教える側と教えられる側の両方から、動きや舞台を見ることができるようになりました。本当のダンサーというのは、やはりそのへんのところが解かってきていて、それができる人ですね。
*人生体験も積んで人間として成熟してから、ということなのでしょうね。
だからその期間というのはすごく短いですよね。1年、2年で終わってしまう場合が多いですね。その後どのようにして過ごすかは、その人その人の人生ですけれど。
*真左美さんは、メルボルンで日本人の大人のバレエ教室も開いていらっしゃいますね。
私はオーストラリアに来てから、あまり日本人との接触が無かったのです。The Australian Ballet Company にいた時は同僚との付き合いがほとんどで、ビクトリアカレッジでも勉強ばかりで、付き合うのはカレッジの学生が多かったですから。でもコースが終わる頃に日本の方と知り合って、メルボルンにはこんなに日本人がいるんだ、と初めてわかったんですよ。それでバレエの話をしているうちに、若いときに習っていたのでまたやってみたい、という人がいたりして、本当に少人数で始めました。それから日本人のお子さんにも教えています。
*音楽に合わせて身体を動かす、というのは楽しいでしょうね、何歳になっても。発表の場などはあるのですか?
1年に1度くらいで発表会をしています。特に子供は早く上手になりますから、これから発表の機会を多くしたいと思っています。
*では今は教える方に力をいれていらっしゃるわけですね。

そうですけれど自分がやりたいこともあって。その一つは一人舞台、踊りと音楽と台詞も入ったものなんですが、これは実現に時間がかかることなので、今、企画を練っているところです。他にはちょうど教科書を書き終えたところなんですよ。これはバレエのエクササイズとは別で、日常にするエクササイズなのですが、教師になりたい人のためのもので、バレエも含めていろいろな系統のエクササイズを学んだので、それらをミックスして私なりにまとめました。またこれを普通の人も使えるようにと考えて、一般向けに書き換えているところです。

*それは英語ですか、日本語ですか?
日本語です。それとチャームアップ・トレーニングという、40才になっても50才になっても、姿勢を正しく姿を美しく保っていたい、という人のためのエクササイズがあって、これは自宅で教室を開いています。日本でもこのエクササイズを学びたい、という人がいて日本にも教えに行っています。これはたぶん日本で先にスタジオを開いて教えることになると思います。歩き方一つとっても、だらしなくない、カバンを持つにしても、お洋服を着ても、何げないことがきちんと様になるような、というようなことですね。若いときはともかく特に30代後半から、こういうことは意識してやった方がいいですから。これは私一人ではなくて仲間がいますので、その人たちと一緒にビジネスとして立ち上げよう、と企画中です。それを今度は英語の本にしてこちらにも広めたい、というのが大きな夢ですね。
*それは素晴らしいですね。日本女性は顔の肌のお手入れなど細部にこだわって、トータルで自分が外からどう見えるか、ということを忘れがちですから。今、"Japanese woman never get old" という本が書店に出ているそうですが、そういうことも意識するようになると、日本の女性は老いても美しい、といわれるようになるかもしれませんね。ぜひ実現してください。今日はお忙しいところお時間をさいて貴重なお話をしていただきありがとうございました。

インタビュー:スピアーズ洋子

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