Yukari Shuppan
オーストラリア文化一般情報

2002年~2008年にユーカリのウェブサイトに掲載された記事を項目別に収録。
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4  オーストラリア人気質


Australian Spirit
                     

G’day mate  (グッデイメイト)               スピアーズ洋子 

mate and mateship

オーストラリアの日常生活で、一番よく聞く言葉はなんといってもmate でしょう。Mate は初期の開拓時代から現在まで、オーストラリア人の生活に深く根ざしている言葉で、オーストラリア独特な使われ方をしています。

”G’day mate.”  “How are you mate?”  “Good on you mate.” と挨拶に気軽に使われます。意味は、相棒、仲間、友人、同僚、同士、同志 など非常に広範囲。

使用範囲は家族内から職場の同僚、見知らぬ相手、政治家は首相に至るまで広く使われています。以前はもっぱら男性の使う言葉とされていましたが、20世紀後半頃から、女性も使うようになりました。色々な人が様々な状況で使う言葉ですが、底を流れているのは、対等感。相手と自分が平等、という気持ちです。

お父さんが息子に言う場合は、軽い冗談であれ、本気であれ、お前を一人前に認めるという意味あいが、含まれます。

職場では、ボスが部下に対して、”How is going mate?” と声をかけることはあっても、その反対は、普通の状況ではまずありません。しかし、会社や工場の門を一歩でれば、社長も課長も平社員もありません。人間として平等ですから、パブのカウンターなどで出会った場合、”G’day mate” とボスが部下から声をかけられることがあります。一介の労働者、部下から”G’day mate” (こんにちわ)と気軽に声をかけられ、“むっ”としてしまうのは新来の日本人やヨーロッパ人のボス。”How is going mate?” (やー、調子はどうだい?)と気軽に返えせるのは、オーストラリア人かオーストラリアに長く滞在している人、ということになります。

上下関係を職場の外まで引きずっていることが多い日本の習慣にどっぷりと浸かっていた人は、初めのうちは、mateといわれることに抵抗感が強いようですが、オーストラリアの滞在期間が長くなってくると、そのうちに慣れてきて、オーストラリア的な人間関係を好ましく思うようになる人も多いようです。

日本が上下関係を大事にする縦社会とすれば、オーストラリアは mate意識、仲間意識の強い、横の関係を大切にする横社会といえます。したがって労働者の権利意識、労働組合、反権力意識の強い社会です。

何故そうなのか、mate という一つの言葉から、この国の成り立ちや、歴史、社会の移り変わりをさぐってみましょう。

The Shorter Oxford English Dictionary ON HISTORICAL PRINCIPLESで mate を引いてみると、そのなかに1450年代の使われ方として、a habitual companion, a fellow worker or partner. Now only use working-class. とあります。1450年代にイギリスの労働者階級の間で、職場の仲間、相棒、パートナーという意味で使われていた言葉でした。

それがオーストラリアの植民時代では、1850年代ころから、共に働き、稼ぎを分け合う仕事のパートナー、相棒と言う意味で使われるようになりました。

初期の開拓時代、英国からやってきた移民たちが、未開の苛酷なオーストラリアの自然の中で生き延びていくためには、互いに助け合っていかなければなりませんでした。未開の奥地に単独で入っていくには、リスクが大きくサバイバルは困難でした。危険にみまわれた時、病気になった時、予期せぬ困難にであった時に、力になり、面倒をみてくれ、頼りになるのは金や遠くにいる肉親や友達ではなく、一緒に行動を共にしている mate でした。

定職もなかった植民時代、男たちは仕事を求めて mate あるいは mates と旅をし、働き口がみつかれば、そこで働き、稼ぎを分け合いました。この頃のオーストラリア英語の mate には、共に働き、稼ぎを分け合う、と言う以上の二人の男の間での誠実、信頼関係も含まれていました。

開拓が進み、役所や病院、学校ができて社会が形成されてからも、男たちは互いに mate と呼びあい、ガールフレンドや妻よりも mate を信頼して一目置く傾向がありました。そのためホモセクシャルをうんぬんされることもあるようですが、それとは対極にある言葉といえるでしょう。

オーストラリアは第1次世界大戦をはじめ、ほとんどの国際戦に参戦していますが、部隊内で生死を共にした兵隊たちは、互いを mate と呼び強いship で結ばれていました。

日本的にいえば、同じ釜の飯を食い、危険や困難を共にした男同士が、信頼した相手を呼ぶ時に使う、言葉ともいえるでしょう。

Mate は15世紀の英国の労働者階級の男たちが使っていた言葉で、植民時代にオーストラリアに入ってきてからも、非常に男性的な男臭いニュアンスがあり、女性には使われない言葉でした。それが、社会の階層、男女を問わず、職場や家庭など、あらゆる場面で使われるようになったのは20世紀も後半を過ぎてからです。女性が使うようになったのは、フェミニズムが起きて男女平等になってからのことです。でも他人が言うのはともかく自分ではとても口に出せない、と言う年配の女性もまだいますが。

しかし現在のオーストラリア英語の mate の対象はとても広範囲で、人間も虫も限りある命の生きとし生けるものとすれば、同じ立場にあり、これら全てが対象になる、といっても言い過ぎにはならないでしょう。

Fair go


 家庭での日常会話を初め、スポーツ、社会、政治面にわたってよく聞く言葉に fair があります。意味は公平、正当、正々堂々など。特に子供たちのいる家庭では、年中聞かれる言葉です。”That’s not fair” といって、兄や姉たちの横暴に文句をつけるのは年下の子供です。その時親が年長の者だけ叱ったりすると、今度は兄や姉たちが親に対して “That’s not fair” と抗議することになります。
 スポーツで要求されるのは強さと同時に fair play。オーストラリアン・フットボールではシーズンの終わりに、良い記録を出したプレーヤーと共にフェアープレーヤーも表彰されます。政治や社会、経済、国際問題においても、フェアーかどうかがとりざたされることがよくあります。
 オーストラリアンイングリッシュとなっている熟語には、fair go (道理にかなった、正当に、適性に)の他に、fair enough (同意する、賛成する、認めるという意味)、fair dinkum (全く正しい、真実)などがあります。
 では、それほどフェアーという言葉が使われるオーストラリアの社会はフェアーか、ということになると話は別になります。

むしろ過去においては国の成り立ちからして、その反対のことが多かったようです。囚人としてオーストラリアに送られてきた人たちの中には、りんご1個、パン1斤、百円程度の金を盗んだという、今では軽犯罪にも当たらないような人たちや、騙されて連れて来られた人も含まれていました。彼らは不当で苛酷な労働をしいられました。
 不当といえば、過去のアボリジニーに対する行いはその最たるものといえます。過去にあまりにもアンフェアーで理不尽なことが多かったからこそ、かえってフェアーに対する願望が強いのではないか、というのは私の勝手な憶測ですが。では、現在のオーストラリアはどうかというと、他の国にくらべると、いろいろな面でかなりフェアーな社会、少なくともフェアーであろうとする社会ではないか、と思えます。

Give it a go


 Give it go は普通の英語では try に当たります。試してみよう、まずはやってみよう、という意味で、良きにつけ悪しきにつけ、オーストラリアの国民性を表した、非常にオーストラリア的な言葉だと思います。
 この give it a go、まずやってみよう、やらしてみようの精神は、政治、行政、ビジネス、教育、スポーツなどあらゆる面で遺憾なく発揮されているようです。オーストラリアでテニスやゴルフのレッスンを受けたり、運転免許証を取った方はご存知でしょう。ラケットの握り方を教えてもらったら、もういきなりコートでボールを打たされて、2、3回目のレッスンからはもう直ぐ試合です。ゴルフも同様、コースの片隅でクラブの握り方を教わったら、さあ、打ってごらん、ということになります。運転の練習も交通規則の筆記試験に受かったら、いきなり道路に出ての運転です。
 1980年代のことです。「オーストラリアは労働者の国」というこれまでのイメージを刷新、これからは「知的国民国家」になろう、と国の目標を定めました。そのためには知的、創造的な次の世代を教育する必要がある、ということで教育内容、方法を変えました。試験のために丸暗記をしていたのでは創造的人間は育たない、という理由で国語や語学の試験に辞書の持ち込み、数学の試験に計算機、物理の試験に法則を抜書きした紙の持ち込みなどを許可しました。そのために試験の内容も大幅に変わりました。まさに give it a go というわけです。さて結果は、スペルが間違えだらけの文章を書く、やさしい暗算ができない、大学生の基礎学力の低下、などなどの問題が出てきました。2000年からは授業の内容も、試験内容も変更されました。
 国民性として、ああだ、こうだ、と理屈をこねる前にまずやってみる、ダメなら変える、という身軽さが基本的にあるようです。それは開拓時代から培われてきたもののように見えます。新天地オーストラリアでは、北は暑く、南は寒い、クリスマスが夏にあり、ユーカリの木は葉よりも幹の皮を地面に落とす。4つ足の獣のカンガルーは、二本足で立ち跳ね回っているところですから、これまでの前例や常識などを当てにするわけにはいきません。Give it a go で、試行錯誤を繰り返す以外なかったのでしょう。

Anti-authoritarianism

Anti-authoritarianism (反権力または反権力主義)、この舌を噛むような長い言葉は、オーストラリア英語ではありませんが、オーストラリア人気質をよく表している言葉です。
 そもそもの国づくりが囚人の労働力を頼りに始まったわけで、その影響は後の社会にも強く残ったといえるでしょう。上下関係を嫌い、会社や組織に対して忠誠心が薄く、反対にメイト(仲間)意識が強く、団結して上に逆らう力はストライキなどに発揮されています。
 第2次世界大戦中、対日本への共同作戦のため、米軍が初めて豪州に派遣されることになりました。その時、両軍の間で誤解がもとでイザコザが起きないように、米国側で豪州理解のためのハンドブックがつくられました。豪州の歴史、生活習慣、スラング、オーストラリア人気質などについて書いたものです。
 それによると、オーストラリア人は“an outdoors kind of people, breezy and very democratic. They haven’t much respect for stuffed shirts, their own or any one else’s.” (戸外が好きな快活な人々で、非常に民主的である。尊大ぶった人物に対しては、それが外部であろうが内輪であろうが、敬意を払う様子は毛頭ない。)と書かれています。
 上司をファーストネームで呼ぶアメリカ人でさえ、多少の驚きをもってこのように表現したオーストラリア人気質は、現在でもほとんど変わっていません。
 このように上下関係を嫌う気質は、ヨーロッパなど他の先進国に比べても非常に強く、それが社会の階級差が少ない原因にもなっています。タクシーを例にとって見ても、乗客が助手席に座る習慣などは、運転手とお客の間に差をおかないという意思表示といえるでしょう。職場でも役職の上下に関わりなく、ファーストネームで呼び合うのが普通です。
 ですから海外から来た人が、このようなオーストラリア人気質を理解せずに、職業や地位、母国での社会的バックグラウンドなどを鼻にかけたり、尊大ぶった態度をとると、反撥されて不評を買い、仕事や人間関係が上手くいかなかったり、というのはよくあることです。
 政治においても、市、州、国が、どんな政権であっても、権力を握っている期間が長くなると、一般の市民から批判や反対が出てきます。オーストラリア人には権力者嫌いが多いのでしょう。政治家が尊敬されている様子はあまりみられません。

Tall poppy and tall poppy syndrome

  Poppy はケシの花のことですから、tall poppy といえば、ケシ畑で伸びすぎてしまって背丈がそろわず、他からとび出てしまっているケシのことをいいます。転じて、他の大多数に比べて抜きん出ていることをいうようになりました。特に能力、待遇、サラリーが他に比べ別格の場合に使われます。そして、メイト意識と平等主義が強いオーストラリア人は、tall poppy があまり好きではないようで、tall poppy は、先を刈り取られる場合が多いようです。

 それが最初に顕著に現れたのは、1930年代。労働党が高収入で金持ちの tall poppy たちに特別高い税率をかけました。

  収入に限らず、能力が人より抜きん出て目立ったり、有名になったり、ちやほやもてはやされたり、特別待遇を受けたりしていると、他に背丈を合わせるために、先を刈り取ろうとする圧力が周りからかかります。これを tall poppy syndrome といいます。かなり頻繁にみられる現象のようです。

  だからといって、オーストラリア人はみんなやっかみ深いかというと、必ずしもそうではなく、無からたたきあげて財を成したり、努力やアイデアで運を切り開いた人には、good on you といって受け入れ、賞賛する面もあります。血筋や家柄において tall poppy であったり、給料で特別待遇を受けたり、もてはやされて得意になったりしている人に、オーストラリア人は厳しいのでしょう。けれど、tall poppy を刈ってばかりいると才能が育たなくなり、優秀な頭脳が海外に流失してしまうと、反省もしているようです。

しかし、tall poppy syndrome は、オーストラリアに限らず人間に共通する否定的な面なのでしょう。日本にも出る釘は打たれる、とか、足を引っ張る、という言い回しがありますから。

Laid-back and veg out

Laid-back  

開拓当初、未知の大陸の厳しい自然、気候状況と戦いながら移民たちは生活を切り開いていきました。しかし、先代の悪戦苦闘続きの生活も、2代3代と続くうちに改善、安定してきました。天然資源も豊富なことがわかりました。社会的には反権力志向を根底に、平等、フェアの精神が育ち、労働者の権利、福祉も充実されてきました。気がついてみるとオーストラリア人は、自分たちの国をラッキーカントリーといえるほど、豊かな生活をしていました。先祖たちには想像もできない、ゆとりのあるライフスタイルです。気質も大陸にあう、細部にこだわらないおうような人々が増えてきました。働き者の日本人からみると、現在のオーストラリアの生活は、なんとのんびりとしていることでしょう。
 さて前置きが長くなりましたが、 laid-back は、リラックスした、のんびりとした、急がない生活態度、様子、性格をいいます。多くのオーストラリア人が好み、理想とするライフスタイルといってもいいでしょう。

Veg out

Veg out はリラックスという意味がありますが、ネガティブな意味合いがあり、 laid-back とはちょっとニュアンスが違います。Veg は vegges, vegging というような vegetable から派生した言葉で、植物という意味。日本語にも植物人間という言葉があるように、動かない活動しないということで、受動的にとらえられています。オーストラリア英語というよりは米語によく使われ、Vegging out in front of TV. とは、カウチポテトと同じ意味になります。

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