Yukari Shuppan
オーストラリア文化一般情報

2002年~2008年にユーカリのウェブサイトに掲載された記事を項目別に収録。
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13 オーストラリアン・プロダクト          スピアーズ洋子

この国には、オーストラリア独特の製品はそうたくさんはありませんが、それでもいくつかを集めてみました。 

Vegemite(ベジマイト)

1922年に食品会社 the Fred Walker Company (後Kraft Food limited)の社長は、パンやクラッカーにバターのように塗って食べる、健康的で栄養がありしかも美味しい製品を作ろうとして、科学者を雇って研究を始めました。

それで、でき上がったのがベジマイトです。ビール会社から取り寄せた酵母から濃縮酵母エキスを作り、それに塩を加え、セロリやたまねぎなどの野菜の香りをつけたものです。黒くねっとりとしたもので、一見、瓶詰めの海苔の佃煮に似ています。公募により Vegemite と名付けられました。

ビタミンBを多く含んだ滋養ゆたかな製品にもかかわらず、初めのうちはなかなか売れず、認められるまでに10年以上かかりました。第2次世界大戦中にオーストラリア・ニュージーランドの軍隊の携帯食品に加えられてから、一般にも普及していきました。現在ではサンドイッチにトーストに、グレービーソースに入れたり、とほとんどの家庭のキッチンに1ビンはあるといえるほど普及しています。海外にも愛好者が増え、オーストラリアを代表する食品の一つとなっています。

Pavlova

オーストラリア人がホストのディナーパーティなどで、ゲストに外国人や移民して来たばかりの人がいる場合に、「これは数少ないオーストラリアのオリジナル料理なのですよ」、といってデザートに説明つきで出されるのがこのパブロバです。

パブロバはメレンゲ(卵白を泡立てて砂糖を加え、軽くオーブンで焼いたもの)を外側がパリパリで中は柔らかくなるように仕上げ、クリームをかけ、パッションフルーツを乗せたデザートです。パッションフルーツの代わりにいちごやキーウイフルーツを乗せるバラエティもあり、オーストラリアの老若男女に親しまれています。

1935年にパースの Esplanade Hotel で Herbert Saches というシェフが試作したのが始まりということです。以来オーストラリアンデリカシーの一つとなっています。名前は1926年から1927年にかけてオーストラリアとニュージーランドで公演し、人気を博した世界的なロシアのバレーリーナ、アンナ・パブロバにちなんで名付けられました。

1970年代の初め、ロンドンへの輸出が試みられましたが、パッションフルーツになじみのなかったロンドン市民の舌にあわなかったようで、さっぱり人気が出ませんでした。試しにパッションフルーツをイチゴのスライスに代えてみたら、売り上げがうなぎ登りになったとか。

パブロバはオーストラリアの代表的なデザートの一つとみなされていますが、同じ頃ニュージーランドでも同名のお菓子が作られています。材料、作り方、見かけは多少違いますが、あちらはあちらでやはりニュージーランドの代表的なデザートとみられているとか。どちらがどちらを真似たというわけではなく、偶然に同じ頃に違う場所で似たものがつくられ、同じ名前が付けられた、ということのようです。

Damper

19世紀のオーストラリアの開拓時代から作られ始めたもので、道具も設備もいらず、粉と水と火さえあれば、どこでも野宿をしながらでもできるとても簡単な料理です。

作り方はユーカリの大きな木の皮などの上で、粉に少しずつ水を混ぜて練り、厚さ5cm、直径30cmぐらいの円盤のような形にします。この時ひびや割れ目が入らないように練るのがコツで、それを焚き火の余熱の熱い灰の中に入れ、灰をしっかりとかけます。かぶせた灰に割れ目が出てきて、そこから湯気がでてきたらできあがり。2、3分後に取り出して、ナイフでまわりに付いた灰を削り落としてできあがりです。なべ、釜の類さえ不要。材料の粉と水にキャンプファイヤーなどの火さえあればできます。この簡単で素朴な食べ物は開拓時代に男の手で作られました。

名前の由来には諸説がありますが、キャンプなどで焚き火の火を消すことを damp down といい、火を消した後の灰の余熱で作ることから名前が付いた、という説が強いようです。

現在でも dumper を売っている店がたまにありますので、興味があったら試してみるのもよいでしょう。

Peach Melba

Peach Melba はオーストラリアだけでなく、広く海外にも知られ好まれているデザートです。正確にはオーストラリア製品ではありませんが、1880代の終わりから1910年代にかけて約20年間、ヨーロッパで活躍した世界的なオーストラリアのオペラ歌手 Dame Nellie Melba にちなんで名付けられたデザートです。

Peach Melba は半分に割って種をとった桃にバニラアイスクリームを乗せ、Melba sauce という新鮮な raspberries (紫に近い濃い赤色をした木苺の一種)で作った甘いソースをかけたデザートです。

当時の世界的な名シェフ Escofier が London の Hotel Savoy で働いていた時に Dame Nellie Melba にちなんで創作したということです。

Lamington

Lamington は子供たちに人気のあるお菓子です。薄いスポンジケーキをチョコレートで被いココナツの実を卸してちりばめたものです。小さな正方形または長方形に切って食べます。クイーンズランド州の昔の総督 Baron Lamington にちなんで名付けられました。ケーキ屋さんスーパーマーケットで販売されています。

Granny Smith

Granny Smith はオーストラリアのりんごの名前です。赤が多いりんごのなかで Granny Smith はうす緑色で値段は他のりんごに比べて安価です。味は酸味がかなり強いのが特徴ですが、熟してきて皮が少し黄色くなってくると甘みがほんのり出てきます。Granny は grandma と同じく grandmother、おばあさんのことです。ですからGranny Smith はスミスおばあさんということになります。

スミスおばあさんは100年以上前のオーストラリアに実在した人の名前です。本名は Mary Ann Smith。  シドニー郊外のEastwood に住み、1870年に他界しています。りんごの Granny Smith が人々に知られるようになったのは、スミスおばあさんが亡くなってからかなり後のことなので、名前の由来は憶測にすぎません。

スミスおばあさんはアップルパイやアップルソースなどを作るのが上手な人で、マーケットに買いだしに行く時はりんごを箱ごと買って来て、アップルパイやアップルソースをたくさん作りました。その時りんごの皮や芯をキッチンの窓から外に投げ捨てていました。数年後、その中の種が育って、青緑のりんごの実をつけました。そのりんごをスミスおばあさんにちなんで Granny Smith と名付けたといくことです。

Granny Smith はオーストラリア原産の固くて甘みの少ない緑色のりんごです。値段が安いので100年以上も前からアップルパイやアップルソースなどの料理用に惜しげなく使われて親しまれています。

Chiko Roll

Chiko Roll はテークアウェイのお店で、ミートパイやソーセージロールと一緒に並んでいます。中身も外見も春巻きとソーセージロールの中間のような感じ。細かく刻んだまたはつぶした野菜とひき肉がはいっています。考案者は Frank McEnroe という人で、1950年代の後半に製作販売を始めて大成功。当時オーストラリアの年間売り上げは、毎年5600万個以上だったということです。そして100万個以上が日本に輸出されていたということです。

Golden Syrup

Golden Syrup はさとうきびから砂糖を作る過程で、砂糖に精製する前にシロップにしたもの。スーパーマーケットなどで売っています。値段は蜂蜜よりも安く、カナダ産のメープルシロップに比べると4分の1の値段です。お菓子やケーキ作りにおしげなく使われています。

Bully Beef

Bully Beef はコーンビーフの缶詰のことです。交通機関が発達し輸送設備が整った現在では過去のことになっていますが、1世紀前の開拓時代には、オーストラリアの内陸部に入っていく人の大切な蛋白源でした。二つの世界大戦でもオーストラリア部隊の常食とされ、兵隊たちには嫌われた食べ物ということです。

Akubra Hat

Akubra はアボリジニー語で頭に付ける物または頭に付けて使うもの、という意味です。

オーストラリアでは帽子のブランド名として使われていますが、一般化されていて、ブランド名というよりは、このタイプの帽子をいうと思っている人が多いようです。

そんな帽子があるの?という人は、オーストラリアの男性がブッシュやカントリーで被っているツバの広い帽子。海外からの来賓、政治家、スポーツマンなどの有名人に、セレモニーなどでオーストラリアの記念品として使われる帽子、といえば思い出していただけるでしょう。

上質のフエルトで作ったツバが広いこの帽子、歴史は広く100年以上もさかのぼります。

Benjamin Dunkerley がオーストラリアに帽子工場を作ろうとしてタスマニアに渡ったのは1870年代のことでした。ウサギの毛を使ってフエルトを作る機械を考案し、その後シドニーに移って会社を設立、小さな工場を建てました。創立者の Benjamin Dunkerley が亡くなってからも、工場は家族に引き継がれ、第1次世界大戦では兵隊が被る Akubra Hat を供給。その後も家族経営は健全で、100人以上の人が働き、週に1000個以上の帽子を生産。世界の有名無名の男性たちに愛用されています。

(これを書くために Akubra Hat P/L に資料を依頼したら、社内報が同封されていて、Three Tenors が Akubra Hat を被って Waltzing Matilda を歌っている写真が載っていました。)

ASPRO

ASPRO は第一次世界大戦勃発により、ドイツから輸入ができなくなったアスピリンの代わりに、オーストラリアの科学者が開発した薬です。 1915年にビクトリア州の科学者 George Nicholas が開発に成功。ASPRO となづけられ販売されました。ダンデノン丘陵に彼の邸宅がまだ残っており、そのそばに George Tindale Memorial Garden があります。Memorial Garden の方は誰でも入場できるようになっています。

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