Yukari Shuppan
オーストラリア文化一般情報

2002年~2008年にユーカリのウェブサイトに掲載された記事を項目別に収録。
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15 その他                                                         スピアーズ洋子

これまでオーストラリアン・イングリッシュについて書いてきましたが、ここでは窓口を広げ、一般のイングリッシュについても少し書いてみます。

西部劇におけるマカロニとスパゲッテイについて

かつてアメリカ映画では西部劇全盛の頃がありました。果てしなく広がる乾いた大地に馬、引き締まった腰に2ちょう拳銃をぶら下げた西部の男たちが繰り広げる活劇に、観客たちは男女を問わず魅せられたものです。駅馬車のジョン・ウエインをはじめ、西部劇を舞台に数々のスターが生まれましたが、1960年代の後半になってからは、観客の動員数は減る一方。そこでコストを削減するために大スターを使わず、ロケも費用の安いイタリアで、やたらに撃ち合いの多い西部劇を制作しました。イタリア産の西部劇なので、この種の映画をマカロニ・ウエスタンと呼ぶようになりました。当時はこのマカロニ・ウエスタン、評判になっていくらかの観客再動員の功を果たしました。

しかしその後、西部劇は衰亡の一途をたどりましたが、一時期、線香花火のように光って散ったマカロニ・ウエスタンは、日本の辞書にもその名を留めています。ところが、このマカロニ・ウエスタンは和製英語なのですね。オーストラリア人とアメリカ人を相手に映画の話をしていて、マカロニ・ウエスタンといったら話が通じなくて、「あなたのいっているのは、スパゲッテイ・ウエスタンのことでしょう」と訂正されました。「まあ、どちらもパスタだから、似たようなものです」と、受け流されたのですが、その時、このことにとても興味を持ちました。アメリカ、カナダ、イギリス、オーストラリアの英語圏では、スパゲッテイ・ウエスタンといわれているのが、日本へ来てどうしてマカロニに変身してしまったのか。最初における、料理にうとい通訳か映画人の翻訳間違いなのでしょうか。

big  as  Ben-Hur   あるいは   bigger  than  Ben -Hur

先月の映画のお話に引き続いて今月も映画から。テレビが普及しはじめてはいるものの、ハリウッド全盛時代がまだ続いていた頃、当時の巨額、何ミリオンという費用をかけてスペクタクル映画がつくられました。劇場で観賞する大掛かりなスクリーンは居間のテレビなど問題ではない、とでもいうように映画の威力を誇示していました。

そのなかでも群を抜いていたのが創世記物語の「ベンハー」でした。主演のチャールトン・ヘストンをはじめとするキャストの費用、大掛かりなセット、群集シーンに動員された人、動物の数などなど、すべてが桁外れで制作費は当時の記録破りでした。

以来、映画のスペクタクルに限らず、大きなもの、大掛かりなものを形容するのに  big   as  Ben -Hur あるいは  bigger  than  Ben -Hur というようになりました。

ちなみに「ベンハー」が製作されたのは1959年、いまから40年以上も前のことですが、この言い回し、それほど頻繁ではありませんが、いまだに新聞、雑誌、会話にも登場しています。

soap opera

メルボルンでは秋のオペラシーズンが始まりました。モーツアルトやワーグナーなどのスタンダードな古典に加えて新作オペラもあります。しかし、今月とりあげる soap opera は、本物のオペラとは全く異なるもの。主に家庭が舞台になり、感傷、感情主義的なドラマ仕立てとなっている連続もののテレビ、ラジオ番組のことをいいます。

日本ではホームドラマ、メロドラマ、昼メロなどと呼ばれているようです。

ではなぜこの種の連続ドラマが soap opera と呼ばれるようになったのか。 答えは簡単。テレビが普及されて、こういう家族でみられる連続番組が制作されるようになった当時、 こういった番組のほとんどのスポンサーが石鹸会社だったからです。

現在ではコマーシャル・チャンネル(民放)の場合、一つの番組にたくさんのスポンサーが付いているのが普通ですが、 欧米社会でもこういう連続テレビ番組は今でも健在で、したがって soap opera という言葉も健在。しばしば使われています。

banana republic

1950年代にハリー・ベラホンテの歌うバナナボートという歌が流行りました。日本では、当時としては珍しい赤く染めた髪を肩までたらした浜村美智子という歌手が、バナナボートを歌ってヒット。カリプソという南米の明るいリズムが大衆にうけました。

ところで、このバナナボートという歌の内容ですが、けっして明るく楽しいものではありません。一晩中バナナの荷積みをする労働者が、夜明けを待つ歌なのです。現場監督さん、明るくなったら早く来て、俺が積み上げたバナナの量を測っておくれ、そしたら賃金をもらって、やっと家に戻れるから・・・・と始まる歌なのです。

さて、本題の banana republic。一般には南米、中南米などの亜熱帯のラテンアメリカ諸国や小国、政治的に不安定で海外の経済に依存している発展途上国のことをいいます。

ところが 定冠詞をつけてthe Banana Republic となると、オーストラリアのQueensland 州のことを指し、bananabenderといえば Queenslanderということになります。

Queensland州は亜熱帯でバナナの生産地であることは確かですが、さて、他のことは当てはまるかどうか。

Hand of God

先月はサッカーのワールドカップで湧いた日本の様子が海外にも伝わってきました。 消費経済も少しアップしたとオーストラリアのニュースでは伝えていました。日本でこれ までサッカーに全く興味がなかった人でも、これを機会にサッカーファンが増えたのでは ないでしょうか。
 

Hand of God はサッカーに興味のある人なら、たいがい知っている世界的に有名な言 葉で、いまさらと思う方もいらっしゃるでしょうが、にわかサッカーファンで知らない方 のためにとりあげました。Hand of Godは、大阪で行われたイギリス対アルゼンチン戦で 英語の解説者が何度か使っていたフレーズです。
 

ことの起こりは1986年にメキシコで行われたワールドカップ。クオーターファイナル (準々決勝)のイギリス対アルゼンチンの試合でした。後半戦で開始直後、ゴールのそば にいたディエゴ・マラドーナがゴールを決めて、アルゼンチン側に1点。このときゴール キーパーは、マラドーナのハンドボールがあったと抗議したのですが聞き入れられず、イ ギリスは惜しくも1対2でアルゼンチンに敗れました。録画で見ると確かにマラドーナの 手がボールに触れているように見えます。マラドーナ自身もハンドボールを否定せず、あ れは Hand of God(神の手)がアルゼンチンに味方してくれたのだ、といったのでした。 この時のマラドーナの言葉、ニュースとなって世界中を駆け巡りました。この年、Hand o f Godはアルゼンチンを優勝に導きました。不思議なことに、これによりサッカーの天才マ ラドーナは非難されるよりも、うまいこという、という印象を与えた方が強かったようで 、以後Hand of Godはサッカーの歴史に残る名言の一つになりました。そしてアルゼンチ ンが出る試合には、必ず最低1度はHand of Godというフレーズが、皮肉まじりに使われま す。一方イギリス側ではメキシコを忘れるな! という気持ちを合言葉に盛り上がり、対 アルゼンチン戦はことのほか熱くなります。大阪の試合でイギリスは1対0で勝。さぞか し溜飲を下げたことでしょう。アルゼンチンは次のスェーデンとの試合は引き分けとなり 、準々決勝への道を閉ざされてしまいました。今回のワールドカップ、Hand of Godはア ルゼンチンには差し伸べられなかったようでした。

 The fall guy

スポーツに関係付けて、今月も少しスポーツにこじつけたお話です。オーストラリア人はスポーツが好きなだけでなく、水泳、テニス、ゴルフなどの国際大会で、たくさん優勝しています。オリンピックでもメダルの数をアメリカと競うこともありますが、どうしてもはかばかしくないのがウインターオリンピック。暖かい国ですから無理もないのですが、これまで一度も金メダルを獲得したことがありませんでした。その記録を書き換えたのが、今年のソルトレイクシティの冬季オリンピック。アイススケートレースで Steven Bradburyがオーストラリアに初めての金メダルをもたらしたのです。優勝決定の最終レースで、前を走っていた選手たちが次々と転び、その15メートルほど後ろにいた Steven Bradbury がその間を滑り抜けて優勝したのでした。いろいろな意味で話題を残したレースでした。以後、彼は特異な形で優勝したゴールドメダリストとしてかなり有名になりました。コマーシャルに出たり、度々インタビューもされていました。そのインタビューの一つに the fall guy というタイトルがつけられていました。

前置きが長くなりましたが、the fall guy の由来は、サーカスやバラエティショーなどのクラウン(道化役)からきています。漫才のように二人で出てきてドタバタを演じますが、片方が殴り役で、もう片方は殴られて倒れそうになったり転ぶ役と役割が決まっていて、転ぶ方を a fall guy といいます。

話は飛びますが、一昔前、日本でヒットしたつかこうへいの芝居で後に映画にもなった「蒲田行進曲」が、以前にSBSテレビ(海外の番組を原語で放映する)で字幕つきで放映されました。「蒲田行進曲」では、池田屋騒動で知られる幕末の勤皇浪士と新撰組の死闘が演じられる、旅館池田屋の階段が、物語のクライマックスの舞台として使われています。SBSでは「蒲田行進曲」に the fall guy という意訳のタイトルをつけていました。なかなか上手いタイトルのつけ方だな、と感心しました。

 Rip-off

Rip は辞書をひいてみると、はぎ取る、引きはがす、引き裂くなどと出ています。それも、ただはぎ取る、引き剥がすのではなく、荒々しく乱暴な動作を意味しています。

Rip-off も同じことですが、スラングとして使われる場合は、全く違う意味になります。オーストラリアでは、むしろスラングとして使われることの方が多いかもしれません。意味は、商売上での詐欺的行為、ごまかして値段をふっかけること。

よくある例では、化粧品や薬、漢方薬や健康食品のたぐいで、原価は1ドル以下、5,6ドルで売られるべきものを、もっともらしい能書きをつけて、何十ドルもの値段をつけたりすることをいいます。はっきり価値付けできないモノに対して、それをいいことに、またはそれにつけ込んで高い値段をつけているのが分かると、オーストラリア人は “It's a rip-off” とか“What a rip-off”などといいます。オーストラリア人はrip-offに対してなかなかシビアな目をもっているようです。

Can't take it with you.

Can't take it with you.  は、持参することはできません、一緒に持っていけませんよ、という意味ですが、さて、どこにでしょうか? それは特に指定がない限り、普通、あちらの世界、冥途、あの世のことをいいます。では、どういう状況の、どういう人に対していうのでしょう。

それはお金を使いたがらない、出し渋る人、財布の紐をかたく引き締めている人に対して使われます。ただ、若い人にはあまりいわれなくて、やはり中年以上の、あちらの世界に近い人に、ということになりますでしょうか。

一概には言えませんが、西洋人はどちらかというと浪費型で、貯蓄はあまりしません。ところが、アジア、それも中国、韓国、日本などの仏教、儒教の影響があった国の人々にとっては、倹約は美徳。浪費は悪徳でした。それは現在でもあまり変わらないでしょう。特に日本では学校でも貯金を奨励していて、お年玉などのお小遣いを預金するために、小学生でも貯金通帳を持っているくらいですから。日本人は貯蓄に関しては筋金入りです。しかし、日本経済が停滞しているのは、消費がふるわないことも原因の一つ、といわれています。

日本人は将来や、老後が不安で財布の紐をひきしめているのでしょう。しかし、他国の人々の目には、あの世に持っていけるわけでもないのに、日本人はどうして溜め込んでばかりいるのだろう、と映っているようです。

東洋人には、あの世に持っていけなくても子供のために残す、という考え方がありますが、西洋人は、それはかえって子供のために良くないと考えます。自分の子供にいつまでも援助はしない、そのかわり、個人としての人格や自由を尊重する、という姿勢です。

いずれにしても Can't take it with you. は、洋の東西を問わぬ真実であることは確かです。ではこの世に何を残すか。お金か、モノか、子供が生きていくための教訓、共有した時間や体験の思い出、後姿? それとも、きれいさっぱり何も残さない? 生き方がそれぞれ違うように、残す形も人それぞれなのでしょう。  

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