Yukari Shuppan
オーストラリア文化一般情報

2002年~2008年にユーカリのウェブサイトに掲載された記事を項目別に収録。
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MELBOURNE Street by Street (3)

Flinders Street   ―  その 8  ―    

ケン・オハラ 

Fletcher Jones 店を出て、次の Flinders Street と Market Street の角に行くことにしよう。

だが、道を横切ってImmigration Museum of Victoria に行く前に  390 Flinders Street の Holyman House に寄ってみよう。

この一見、何の変哲もない建物は、今から145年前に、オーストラリアの移民の中で大成功した一人といわれる人物によって建設された。

Richard Goldsbrough がイギリスのウール産業の中心地であった Bradford からメルボルンにやってきたのは、1847年のことであった。4年後の1851年、すでに彼はメルボルンの主導的なウールブローカーになっていた。メルボルンのウールオークショナーとしてスタートし、牧場で生産されたウールを買い上げて販売することから、牧場そのものを買い上げ販売するエージェントの仕事もしながら、自分の牧場をGippsland に開拓した。

Holyman House は Goldsbrough の倉庫として1858年にデザインされ建設された。

Richard Goldsbrough は1860年代の恐慌をなんとか乗り切り、銀行の負債を解消する為に、海外から融資を得ることに成功し、1881年には彼の会社と銀行を合併させた。

おそらく Richard Goldsbrough ほど、オーストラリアの経済システムの樹立と、20世紀における飛躍に貢献した者は他にいないであろう。

彼は1886年に他界した。2年後、彼の会社は、イギリスからの移民 Thomas Mort によって設立された同じような会社と合併した。

"Australia rides on the sheep's back" という句があるが、これはまさに100年前のオーストラリアの国情をいいあてた名言である。当時のオーストラリアの輸出の半分は羊毛で占められ、それは世界の羊毛市場の半分を占めていたのである。

20世紀前半のオーストラリアの田舎の経済は Goldsbrough Mort & Co と Elder Smith and Co の二つの大会社が支配していた。Thomas Elder はスコットランドからSouth Australiaにやってきた移民であった。後年の South Australia の彼の農場は、スコットランド全体よりも広くなっていた。

当時のオーストラリアの農場主たちは、経済を初め、農機具の仕入れ、産物の販売、不動産の売買にいたるまで、この二つの会社に依存していた。20世紀においてオーストラリアで有名な三大会社といえば、誰もが Goldsbrough Mort と Elder Smith と BHP をあげるであろう。

しかし、時代は変わった。田舎の経済を支配していた大会社は、市場が縮小していくのを認識せざるを得なかった。1960年代に入って、Goldsbrough Mort と Elder Smith は合併した。

この150年前のオーストラリアの有名な事業家の話は、35年前の有名なオーストラリアの事業家に繋がっていく。

John Eliott's の事業家としての最初の成功は1960年に IXL ジャム会社の経営権を手に入れたことに始まる。

このジャム会社は後に Elder Smith Goldsbrough Mort の経営権を獲得し、そして、Elder Smith Goldsbrough Mort はオーストラリア最大のビール会社 Carlton and United も支配下におさめた。(現在は Foster's と呼ばれる有名ブランド )

1970年代、John Elliott はこの世の春、天国にいるような気分だったのではないだろうか。なぜなら彼は Carlton ビール会社を運営し、 Carlton Football Club の会長だったのだから。

彼は BHP の社長も兼任し、Liberal Party の代表でもあった。彼は首相になるのではないかといわれもした。(この任務はこの世の天国とは程遠いものだと思われるが。)

現在 John Elliott は苦境にある。彼はビール会社からもフットボールクラブからも追い出され、彼の個人の事業 (Water Wheel rice growing and export operation) は、経営破綻した。

30年ほど前、このビルディングが Immigration Museum になる以前にLiberal Party の政治家たちのオフィスとして使われていた頃、John Elliott はしばしばここに足を運んでいた。

さて、それでは Immigration Museum を訪れてみることにしよう。そこにある19世紀のメルボルンで最も印象深い部屋といえるLong Room  を見てみよう。

そしてメルボルンの創設者 John Batman の足跡をたどってみよう。(歩道に目印がはめ込んである。)

1835年、John Batman はここの近くに到着し、 "This will be the place for a village"  と宣言したのである。 

copyright: Ken O'Hara
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